第13回 景観散歩
           〜杉と梅 鶯の鳴く 青梅かな〜                           足助 哲郎 (会員)
青梅という地名を知った時から気にかけていた。
5月31日、13回目の景観散歩で青梅を訪れる朝、何年ぶりかで梅の木にさえずる鶯の鳴声を聞きながら家を出た。41名の参加者を乗せたバスは、「青梅産の杉と石灰が江戸のまちづくりに欠かせない原材料で、それらを調達し江戸まで運ぶ拠点として開かれたのが青梅宿であった」など、幹事の行き届いた旅案内を聞く内に青梅に着いた。最初に出迎えてくれたのは我孫子の家で聞いたより元気でじょうずに鳴く鶯だった。

18年ほど前に、商店街の活性化をねらい「振り向けば青梅宿」を合言葉に、かつて3軒の映画館があったことを懐かしみ、映画看板を掲示することになったこの界隈。地元の映画館で活躍した看板師に古い名画の絵看板作成を頼み掲示したところ好評で、常設されるようになったとのこと。その後全国的に知られるところとなり、爾来今日まで続けられている。30軒ほどの商店が空き店舗や廃業した病院などを活用して創りあげたこの街並みの中核は、昭和レトロ商品博物館・赤塚不二夫会館・昭和幻燈館の3館。その生い立ちをお聞きしてから、それぞれを訪れたが「振り向けば青梅宿」の看板とはいささかコトナル空間であった。

「美肌ねばねば御膳」をひるめしに食べた。
新緑の多摩川を見下ろす岸辺に建つ「かんぽの宿青梅」で窓辺に席をとり地元の食材をふんだんに使った「美肌ねばねば御膳」を食べた。川原では、未だ寒かろうに一組の家族がバーベキューを楽しんでいた。川の流れを見ながら、道すがら住吉神社の境内で目にとまった「筏組み多摩川下る青梅杉」のいろはカルタの句から、往時の様子に想いを馳せた。ひるめしのあと多摩川沿いの釜ヶ淵公園を散策し、移築された江戸時代の農家旧宮崎家住宅や青梅市郷土博物館を見て歩いた。郷土館の展示に"ガチャマン"という、およそ似つかわしくない掲示を見つけた。説明文に「戦火を免れた青梅では織物産業が復活し戦後の復興につれて全国に夜具地を供給し一時は日本の総需要の90%を占めた」とあった。来る日もくる日も織機が「ガチャ」と動けば「マン」の金が飛び込んでくるほどの好景気だったことに由来していた。幼いころ寝小便で世界地図を描いた布団地は青梅産だったのかと頭を過った。
青梅街道
・旧青梅街道筋商店街に掲げられた、ひときわ目立つ映画看板 

青梅の由来は平将門伝説にあった。
今回は訪れなかった、古刹「青梅山金剛寺」に由来していた。郷土博物館の学芸員にもらった郷土誌のコピーに「将門がこの地に来て、馬の鞭にしてきた梅の枝を地に挿し、自らの武運長久を祈願した。その枝が根付いて花を咲かせ実を結んだ。その実は夏を経て秋も晩く葉が落ちるまで熟することなく青々としている。将門はこの奇異を喜び、一寺を建立した。ともあれ、一本の梅の木が里の名となり、今につながっている。江戸時代の公卿、日野資矩は『結ぶ実の変わらぬ色の名も世々に青梅のむらの梅のひともと』と詠み、この里を青梅むらと称するは、ひとへに此の一樹の名誉によるとした」とあった。

我孫子の地を大切にしたいと思った。
我孫子と同じ将門伝説も持つ青梅市は市制50周年を迎え、我孫子市の10年先輩。観光客は御岳山をはじめとする登山客も含め年間200万人という。そのおよそ10%の人たちが昭和レトロの街を訪ねると聞いた。いずれをとっても我孫子の3倍強か。「手賀沼のほとり心輝くまち」我孫子に多くの人が訪れてくれるようにしたいものだとの思いを強くした一日であった。
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さがみ野から、赤いひまわりの便り
昨年11月に開催された、第7回「景観づくりシンポジウム」で、神奈川県座間市のさがみ野ストリートガーデンを紹介しました。

その際のビデオに、「赤いひまわり」のお話がありましたが、この度さがみ野やすらぎ街づくり委員会会長関吉実冶様より、今咲いている「赤いひまわり」の写真が、計画課景観推進室に送られてきました。名前は「リングオブファイヤー」、座間市立東中、国際福祉部が植栽メンテナンスをしている花壇で、120本咲いているそうです。情熱的な花ですね。

・右の写真はプロカメラマン川内輝彦さん撮影
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さがみ野のひまわり

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