私の好きな我孫子の道 PARTⅡ               山中 浩一(会員)
          志賀直哉著:「11月3日午後の事」の道を辿る 学校花壇・学び舎への道 -1-
平成23年9月28日(水)秋晴れの朝、我孫子駅南口に16名の会員が集合して、出発点である志賀直哉邸跡へ。この作品は志賀直哉が我孫子時代(大正4年9月~大正12年3月迄)に7番目の作品として書いたものです(大正8年1月発行の「新潮」に発表される)。私達は「自宅から柴崎に鴨を買う」ルートを今回小説に沿って忠実に辿ることになりました。
小説のあらすじは次の通りです。

「晩秋には珍しく南風が吹いて、妙に頭が重く、肌はじめじめと気持の悪い日だった。座敷で獨り寝ころんで旅行案内を見ていた。其処に根戸に居る從弟が訪れて来た。雑談のあと,久しぶりに二人で散歩しながら柴崎に鴨を買いに行くことになった。二人は庭の裏山を出て,『子の神道』から小学校
(注1)の方へ曲った。成田線の踏切を越して行く歩兵の一隊が遠方に見えた。自分達もこの踏切を越して、あまり注意もせずに話しながら歩いて来たが、兵隊が敵を追う様子を從弟と話しあっていた。常磐線の踏切から切通しのだらだら坂を登って少し行くと彼方の桑畑に散兵に出会う(注2)。東源寺と言う榧(かや)の大木で名高い寺への近道の棒杭らのある所から街道を外れて入った。自分達は竹薮の中のじゅくじゅくした細い坂路を下りて、目的の鴨屋へ行った。」

小説を片手に見ながら歩いて「当時の日本の軍隊の無知と非科学的な演習で弱った兵隊の様子と買って帰った瀕死の鴨をオーバーーラップさせている」と感じました。また、手賀沼は江戸庶民の食用の水鳥の供給地であった。当時は鴨(青首)のつがいを歳暮の贈り物にする習慣があったとの事です。 

志賀直哉旧宅への道
志賀直哉邸跡への道
初秋とは言え未だ残暑の厳しい中、兵隊の訓練さながらひたすら歩きました。志賀直哉と違う事は昼食時のビ゙―ルの美味しかったことでしょうか。

(注1)当時我孫子町立尋常高等小学校 ⇒ 現在我孫子市立第一小学校
(注2)船取線の常磐線隧道を抜けて暫く行き、教育委員会の方に急坂を登るあたり。
私の好きな我孫子の道 PARTⅡ               飯塚 節子(会員)
          学校花壇・学び舎への道 -2-
10月26日、今回は第四小学校・白山中学校・根戸小学校・久寺家中学校の4校を訪ねました。

午前10時、穏やかな秋の日差しの中、秋田リーダー以下11名が我孫子駅南口を出発しました。最初の第4小学校に向かう途中に、なんでこんな処にと思えるような2,30坪位の空き地の真ん中に60年物という立派なリュウゼツランにびっくりさせられました。

第四小学校では校内に入れず、通りからフェンス越しに見るだけでしたが、生徒達とボランティアの方々による手入れの行き届いたバラがきれいに咲いていて、漂うバラの香りに心が和みました。

白山中学校では校内を見学させてもらえ、秋を感じさせてくれる白樺の木が校舎とよく似合っていたのが印象的でした。季節がら花というより木々が目に付き、校内の斜面が樹木や下草の花等で上手にまとめられていました。

根戸小学校も通りから眺めるだけでしたが、種から育てている小さな苗の鉢がいくつも並んでいて、花に対する深い思い入れを感じて心を和ませてくれました。

最後の久寺家中学校では校内に入ることが出来て、ロダンの考える人の銅像(?)が迎えてくれました。花壇には紅白の水引などの身近な野草が多数あって、これも花壇なんだと感心させられました。帰り際に校庭全体を見下ろすと、色づいて来た木々と花や緑がよく似合い、学び舎にはなくてはならない風景がそこにありました。
今回、樹や花などあまり知らない私が参加したのですが、遠い記憶の中の学校の風景が今もあまり変わらないように思え、少しだけ生徒のころの気分を味わうことが出来ました。


白山中学
・我孫子市立白山中学校

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