創刊当時の思い出、現在までの変遷 
                     草創期のころのこと                     佐多 英昭
平成12年10月に、我孫子市都市計画課景観推進担当の呼掛けで、景観づくり市民講座への参加募集の案内があった。内容は「我孫子ってどんな所」「あびこの景観の特徴」「我孫子地区まちなみウオッチング」「まちの緑について考えよう」「まちの色について考えよう」というものであった。

3回の講座と最後に景観シンポジウムに出席した。平成13年2月と3月には、今後の活動や講座内容についての意見交換会の場がもたれた。もろもろの意見が出る中で、このまま受講生が解散してしまっては今後につながらなくなる。なんとかもっと続けようではないかということになった。

出席者の中から、田中、中島、佐多の三人を世話人と決め、会の発足に向けて準備を進めることになった。平成13年4月には会名を「我孫子の景観を育てる会」とした。同年5月には会則案、活動計画案を策定し、参加希望賛同者の確認等の準備を整えて、平成13年6月、会員21名で設立総会を開き、「我孫子の景観を育てる会」の発足となった。7月には市の定める景観条例にもとづく景観づくり市民団体として認定の申請を行い、市の認定をいただいた。
平成14年3月までは、会員が平素いだいている我孫子の景観への思いや、現状の問題を出し合ったり、今後の活動などの取組みについて話合いをくり返し行った。

フリートークをつづける内に幅広い分野に内容が別れていることから、活動内容を六部会に集約することになった。広報部会、歴史会、グループF、デザインクラブ、街並班、環境美化とし、活動を開始することになった。広報部会は平成14年3月に「景観あびこ」を創刊するに至った。創刊号で各部会長は、これからの部会の活動の抱負を述べている。

「景観あびこ」は会の活動を知ってもらう他に、景観に関していだいている思いや意見を発表し、会員相互はもとより、外部に対して広く情報を発信することを目的として始めました。

会が発足して10年、会の活動は大変充実したものになってきました。この「景観あびこ」をご覧になると解りますが、会員が日頃いだいている考えや、意見、取組みなどの内容でにぎわってきています。広報部会の編集者達の支えに感謝致します。
「景観あびこ」50号に寄せて                                   高橋 正美
「景観あびこ」第50号記念おめでとうございます。
 本会は、平成13年(2001年)6月に発足しましたが、その年12月の例会で、会の活動を積極的に推進するため、6つのグループを作ろうということになり、そのグループの一つとして広報部会の名が挙げられました。その折のメンバーは、富樫さん、清水さん、織田さんと私だったと思います。

同部会の主な仕事は、会の宣伝普及活動ですが、その一環として、会報「景観あびこ」を年4回発行することになり、一番大変な役割の編集長に清水さん、私は推進役を務めることになりました。

次に大切な会報の配布は、私たちのほか、当時会長の佐多さん、吉澤さん、濱田さん、岡さんなど会員の皆さんが積極的に手伝っていただきました。発行部数は当時500部、体裁はA4版で2列横書き4頁7,500字で、紙面を見やすくするため、私が日頃趣味で描いていた手賀沼を中心とした我孫子の風景画や静物画などをカットとして出させていただいたのも懐かしい思い出です。

紙面づくりは、全4頁のうち1頁目は評論、2頁目は会員の提案、特集、3頁目はお知らせ、会員活動状況、4頁目はインタビュー・編集後記としましたが、何と言っても、力を入れたのは、インタビューでした。

創刊号第1回目の三樹荘・村山祥峰さんのインタビューが契機となり、三樹会の清掃事業が2005年3月に立ち上がり、現在も30名を超える会員によって月4回行われ、7年目を迎えました。私は、平成17年に体調を崩し、退任しましたが、三樹会の清掃は続けさせていただいております。

最近の「景観あびこ」は、会の活発な活動状況が、また建設的な意見が紙面に踊っています。素晴らしいことだと思います。この上は、私として在任時代できなかったこと、市民の皆さんの率直な声を、もっと紙面に反映していただければ幸いと存じます。

古戸稲荷
「景観あびこ」50号おめでとう                                        富樫 道廣
「景観あびこ」が50号を迎えることを知らされた。
 時間の重さを感ずると共に、廃刊になることなく、休刊することもなくこれまで継続してきた編集スタッフの方々のご苦労に敬意と感謝をするものです。創刊当時のことを振り返ってみると、無我夢中で始めたことを汗顔の至りで思い出す。

「我孫子の景観を育てる会」がスタートして先ず何をしなければならないのかと考えて、まだ耳なれない「景観」という天下りしてきた役所用語を多くの人々に知らしめることだろうと思った。「景観」よりも「風景」の方がなじみが良いだろうとか、「景観」は静止画像だが、「風景」の方は「風情」ある「情景」で「情」の心がかくれていて人間的だとか議論がつきなかったが、役所の景観条例に認可された会の広報機関紙である以上「景観」を使うのが筋だろうと落ちついた。

定期的な広報機関紙であるならば、新聞の社説でないまでも、何らかの主張があるべきだろうということになって始めたのがシリーズ「景観を守る人々―インタビュー」である。

景観形成推進地区に設定されそうな「水辺景観」、「緑景観」、「利根水運の歴史性景観」などから無作為に手当たり次第に拾ってみた結果、第1回目が当然のことながら、三樹荘の村山さんになったわけである。そのあと根戸城跡の日暮さん、湖北座会の星野さん、相島の井上さんなど、編集の清水さん、織田さん、高橋さんを引っ張り廻したものである。ところが何時の間にか断ち切れてしまった。景観を守る人々のネタが切れたわけではない。しかしインタビューをしているうちに、景観スポットであってもひとりで守っているわけではなかった。

我孫子の景観構造は多くを水と緑に依存している。その代表的な手賀沼は広大な「コモンズ」であった。人々の生活の場が、すべての生態系を維持して景観を形成していたことになる。

かつて手賀沼は全国でも有数の雁類の越冬地でもあった。中世の昔から鴨猟は盛んで、地域の布瀬で開発された「ボタナワ」(流しモチ縄)の猟法はかなり優秀な技術で、秀吉、家康に献上された記録もある。これはつい最近まで使われていた。手賀沼には「会所(カイショ)」というシステムが出来て、江戸の商人も入り、ここで相場が立ったという記録も残されている。

沼南布施の香取鳥見神社に見られるように、当時の地域の繁栄ぶりはひときわ目立っていた。神社も立派なものだが、その境内からの眺めもすばらしく、三方を沼に囲まれ、筑波山を背景にした湖北の斜面林、中里の渡しは見事なものであった。
川瀬巴水がここを手賀沼の画材に取り上げたのも納得のいくところである。しかし今や巴水の手賀沼はもうここにない。東西200mほどに分かれていた「にない塚」も湖北の開発で消えてしまった。

この様な文脈から、我孫子の景観を守ってきた人達はこの自然の生態系を維持してきた「コモンズ」の無数の人々、農業者、漁業者、運搬業者であることが分かってきたのである。
 それならば「景観を守る人々」はこれらの人々を対象にすべきと考えた。だがそのためには、相当しっかりした仕組みを作らなければならないと思いつつ、他の仕事にかり出され腰砕けになってしまったのがホンネである。

21世紀は人々の景観に対する意識がかなり変化しそうな気がしている。
 昨年の三陸大津波では日本一美しかった海岸線が500キロ以上にもわたって破壊されてしまった。天の創造物として自然が私たちに与えてくれたものが、自然自らの力で破壊していったことを知らされた。残されたガレキは片づけられても、美しい景観がもどるのは何百年先のことかわからない。

また、今年は東京にスカイツリーという634メートルの高い建造物が出来て空間を占有するようになった。当分富士山はナンバーワンを明けわたすことになるだろう。

それから、古いものが修正されたのもある。東京駅。この間、修復のヴェールが取れてその全貌が見える様になった。見事に美しくなった姿は、大正の辰野金吾が生まれ変わった様である。しかし、一点視線を集中していればいいのだが、和田倉門から歩いて気になるのは、周囲の近代的なガラス張り高層ビルである。一点を守ることで景観は守れないのである。

明治や大正の時代に景観に思いを寄せた田山花袋、夏目漱石、永井荷風などが描写した東京の景観はもうどこを探しても見つからない。経済発展が人々の望むところであるならば、スクラップアンドビルドという行為は景観を守る人々の前に大きく立ちはだかるのである。

景観を守るということは一点を守る、見つめるということではなくて、人間の感情や知性が凝縮された文化であり歴史であるのだと思う。

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