第17回 景観散歩 行田市
      忍城、足袋と古墳、歴史の街                     小谷 滋(会員)
2013年5月30日(木)、参加者38名を乗せた福祉バスは定刻8時半、空模様のあやしい我孫子駅北口を出発、行田に入ると先ず電線の地中化なった目抜き通り、国道125号で童(わらべ)たちの銅人形が車窓から目に入ります。道路はすっきり、童たちの遊びのしぐさ可愛い街並みです。

行田市旧跡忍城(おしじょう)本丸跡の郷土博物館へ10時半に到着し、観光ボランティア会の3名のガイドさんの出迎えを受けました。早速、博物館の歴史コーナーを見学し、ガイド清水さんの先導で忍城、街の中へと向かいました。忍城の忍とはアイヌ語で沼地を意味する由、地名も25年前までは北埼玉郡忍町行田だったのが行田市になりました。今は人口8.5万人を数えます。

忍城は戦国時代、成田氏が低い沼や深田など天然の地形を巧みに利用して築城しました。秀吉の関東平定時、石田光成の全長28kmの築堤による水攻めを受け、10倍を超える寄せ手の攻撃に耐え忍んだものの、この戦いで開城しました。成田氏の時代は約100年で終わり、やがて江戸時代、石高10万石の大名として四氏目の城主の時に明治維新になり、今に残る土塁で囲まれた本丸跡を残し、城はこわされました。現在ある3層櫓は昭和63年に場所を変えて再建されたものです。

城を後にして街に入ると足袋蔵が目立ちます。行田の足袋は江戸時代の初め、周辺で栽培される綿花を加工した青縞という綿布が特産で、それを足袋用の布として利用できたこと、藍染めが盛んなこと等で、下級武士などが内職として作ったのが始まりで発達し、やがて明治に入るとミシンによる大量生産が行われ、昭和初期には全国一を誇るまでになって、最盛期の昭和14年は9千万足、全国生産の8割を占めるに至ったそうです。当時の日本の人口が7千万人程度だったことを考えるとすごい数ですよね。当時は冬の保温履物は誰もが足袋、私たちチビッコもボロボロにつぎの当たった足袋にせんべい下駄、戦争ゴッコの日々でした。ちなみに現在の生産量は80万足、多くが外国で委託生産されるとか。足袋を保管した足袋蔵は約80棟が残され、銀行の支店や老舗の店舗などとして再活用されています。

昼食は本格的手打ちそばの店「NPO忠次郎蔵」で。建物は昭和初期の足袋原料問屋の見世蔵で、国登録有形文化財です。二八そばと天ぷら、ゼリーフライ。このゼリーは昔の足袋女工さんのおやつが今に伝わったもので、名の由来は銭型とか。衣のついてないコロッケと言った感じ、幹事さんの計らいでメニューに加わりました。質量共に大満足のお昼でした。昼食後はお土産屋さんへ。我孫子人の購買力の豊かさは銘菓店で存分に発揮されました。

最後は行田の誇るもう一つの旧跡、さきたま古墳群公園へ。ここは行田市大字埼玉(さきたま)、県名発祥の地です。推測5〜7世紀につくられた9基の日本有数の大型古墳が残されていて、うち2基が発掘調査されています。昭和43年に発掘された稲荷山古墳から、金錯銘鉄剣、帯金具、鏡などの遺物が出土、鉄剣に刻まれた銘文の内容が、我が国古代国家成立を読み解く上で歴史的価値高く、鏡などと一括して国宝に指定されました。これらは公園内の「さきたま史跡の博物館」に展示されてます。丸墓山古墳は日本一大きな円墳で、創建当時の高さを保ち、三成が攻城時、この頂上に陣を張りました。私たちが登頂した時は曇り空で忍城は望めなかったものの、周囲の濃緑の古墳群の規模の大きさ、美しさを眺められました。

この日はひそかに大雨を覚悟して参加したのですが、幹事の方々の気迫は雨をも追い払い、楽しく快適な小旅行を味わうことが出来ました。お世話になった福祉バスは、午後4時50分、出発地へ元気な全員で帰着しました。幹事の皆様ありがとうございました。行田のガイドの皆様によろしくお伝えください。

新しい街づくり、そして歴史を語る城・蔵・古墳といった景観はどこかが我孫子に似ていて、行田も大好きになりました。




丸墓山古墳にて

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