我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第61号 2014.5.17発行
編集・発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
風景を見る眼・景観を見る眼                                                          富樫 道廣(会員)
昨年から今年にかけて上野の国立西洋美術館で「モネ・風景を見る眼」という企画展が、箱根のポーラ美術館との共同企画で開催された。モネはだいぶ見てきたが、そのキャッチコピーの「風景を見る眼」というのに吸い寄せられて入ってみた。

 さて「風景を見る眼」を追っていく。
 まずセザンヌのモネ評が出てきた。それは、「モネは眼にすぎない。しかし何とすばらしい眼なのか」という同僚への賞賛だった。

セザンヌの評に從って、モネの眼を追ってみると、改めてモネの眼が他の画家たちとは違っていることがわかってきた。全作品に通していえるのは、すべてがその眼は光に集中していることである。そしてその光を表現する媒体は多くは水にある。

今回出展されなかったが、同時代の印象派ルノワールとの比較で例に出される、パリ郊外の行楽地「ラ・グルヌイエール」がある。二人で同じ場所にキャンバスを並べて描いたものとされているが、構図もほとんど同じなのに、モネは水面を大きく取り、水平線は上部になる。一方ルノワールは島の中でくつろぐ男女の人物の細部を色彩と繊細な筆づかいで仕上げている。

今回も隣同士に並ぶセザンヌやシスレーを比べて、モネは中の構図に関係なく奥行きがある。人を招き入れる様だ。セザンヌやシスレーが画面の構成に腐心しているようだが、モネは全く無頓着にみえる。それはあとになって自分の庭、ジヴェルニーの水蓮の連作でもその通りで、花の構成にも無関係の拡がりをみせている。着物の留袖や、訪問着の裾模様にしたくなってしまう。

光を相手に作業となると、時間との競争にならざるをえない。朝日が輝く光景の「印象・日の出」は青と朱の色彩が限定され、すばやい筆さばきが要求されたのだろう。

ベニスの運河を描いた、「サルーテ運河」もその通りで、画面の半分がオレンジ、赤、ピンクの建物と青い空。それが下半分が水面に映ってまるで水鏡の様だ。光の共演はまだまだ続く。「ルーアンの大聖堂」「国会議事堂・バラ色のシンフォニー」などの、日の出、日の入りの数分間の色彩である。

この様にモネの風景の見る眼をおっていくと、景観を見る眼とは大分違うことに気がついた。 
風にゆらぐ柳の小枝と水の波を景観の対象にする人はいないだろうし、夕日に輝いた建物がよく見えないものを良い景観と言う人はいない。
ここは風景と景観を議論をする場所ではないので省略するが、景観は見たいものがよく美しく見える、そして正確に鮮明に見えるのが良い景観なのだろう。そうすれば、景観を見る眼で描いた典型に、川瀬巴水の「手賀沼」をあげたいのである。

このフレーミングの発端を私は勝手に、布瀬の香取鳥見神社と決めているが、そこから見た湖北の"にない塚"までの画面構成に近景がなかったので、下まで降りていって、中里の渡し舟と、湖北の緑の丘の上にわき出た入道雲をていねいに描写している。

絵師と掘り師、そして摺り師とが一体とならなければ成立しない木版画ならではの作業であろう。モネの見た風景がこの様な木版画になることは難しいだろう。
また数多く見る建造物を描くエッヂングも同様のことがいえると思う。

この様にモネの風景を見る眼が光と水に集中することを知って、何とも手賀沼に連れてきたくなった。モネを手賀沼に立たせたら何処を選ぶのだろうか、朝日なのか、夕日なのか、高野山の市民農園の下、手賀沼公園から2.5キロの地点に案内したい。朝日になびく水面のかがやき、両岸の五本松公園や布瀬、手賀の丘は逆光で暗くなるのだろうか。

もう一人セザンヌも呼んで来たい。サント・ヴィクトワール山に出る近景の木々を見て、日立の庭園、ホトトギスか観月亭に案内する。彼は、その松の枝ぶりをフレーミングに入れてくれるに違いないと信じたいのだ。

そんな夢を見ながら美術館を出た。


        日立総合経営研修所庭園から臨む手賀沼(絵:筆者)

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