シリーズ「まちの美化に取り組む人々」-27- 
          下ヶ戸の太田さんご夫妻                                        秋田 桂子(会員)
昨年「我孫子のいろいろ八景」の<成田線車窓八景>を選定するため、何度か成田線に乗車した会員から「我孫子駅から成田線で1駅、東我孫子駅に着くと左手の車窓からいつもきれいに花をハンギングしている白い家が見えるね」「そうそう、目につくね」という話があった。

そこで、そのお宅を訪ねてみた。ご主人が出ていらして「家内が出かけていて私はよく分からない」とおっしゃる。しばらくして奥様がお帰りになったので、早速お話を伺う。「昭和52年から住んでいます。花を飾るようになったのは、ここ25年くらい前から。人のためではなく、自分の楽しみで花を飾っています。『楽しませてもらっています』とわざわざ戻ってきて言ってくれる人もいるんですよ」とのこと。

お話中に、「私の家より、もっともっときれいな家がたくさんありますよ」と謙遜して何度もおっしゃる。「花は、苗を買ってきて季節ごとに飾り、その時は主人が土づくりをしてくれます」。

そういえば、先ほど、ご主人は「私は分からない」とおっしゃっていたが、お二人でされていることが分かる。ご夫妻そろって、町の人々にとって心潤う場を作ってくださっているのだ。住まう人の心がけで、我孫子が花や緑の美しい街になる。このことが「我孫子の景観を育てる」こと、そのものだと実感した。
【紀行】熊野と奈良の古道に歴史景観を求めて            梅津 一晴(会員)
熊野の地は標高千mの高原地帯のため起伏が激しく、昔から交通の困難な場所でした。

熊野古道は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への信仰の道、日本書紀に登場する自然崇拝の地です。907年の宇多法皇の熊野行幸が最初と言われます。熊野三山への参詣が盛んになったのは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われます。以来、京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになりました。江戸時代に入って、伊勢詣と並び、熊野詣も広く庶民が行うようになりました。しかし、明治維新の神仏分離令で神社は減少し、熊野詣の風習も衰退しました。

熊野古道は、高野山から熊野三山に通じる小辺路(こへち)、田辺-熊野三山の中辺路、田辺-串本-熊野三山の大辺路が知られています。その他に紀伊路、伊勢路があります。紀伊路以外は、2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコ世界遺産となりました。

私が歩いたのは昨年秋に「JR大人の休日」で企画した中辺路の一部です。9月28日9時、紀伊田辺駅に集合、10時にバスで出発、登山口の滝尻王子(標高約40m)に10時30分着。ここには茶屋もあり、今日案内する"語り部"も待機して居ました。

11:30、いよいよ出発!中辺路の滝尻王子は九十九王子の中でも社格の高い「五体王子」の一つとされ、ここから神域に入ります。20分程歩き登って不寝王子に来ますが、そこを出ても、急な登路が続きます。木の根が張って、階段になっているような所もあります。かなり急な登坂ですが、後を振り向いて見ると、30m程の上り下りを2度ほど繰り返しながらも、かなり高く登ってきたため見晴らしの良いところがあります。深呼吸。
剣ノ山経塚跡(13:00)で10分休憩、剣の山経塚跡からは平坦な道になります。8分ほど歩くと、展望台への分岐があったので上がってみました。長閑な山並みが目の前に広がり、気分も少し休まります。登り口から約350m登ったと"語り部"の説明がありました。ここからは暫く下りになるので少し楽に。

展望台から15分下って高原熊野神社に通じる車道を横断、再び古道に入りました。5分程歩いて、針地蔵尊(13:30)。この辺りから階段状の登りが再び始まる。結構キツイです。一休みして15分ほど登った後、高原熊野神社までは人家もある緩やかな狭い車道を下り、高原熊野神社に入りました。歴史のある神社で最も古い建物です。一休みして下山。30分程して国道に出、JRバス栗栖川駅に到着しました。ここからバスでJR紀伊田辺駅まで、駅着は15時30分でした。

熊野古道は修行の参道です。神道信仰に無知な私ですが、神代の時代からの伝統に生きる景観を感じ取る事が出来ました。

翌日は大阪に宿泊し、天皇陵として最古の崇神天皇陵、景行天皇陵や平等寺等のある奈良丘陵の山の辺古道を歩きました。2泊3日の旅でした。

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