宮城県亘理町を訪ねて             中塚 和枝(会員)
9月25日(木)26日(金)1泊2日で、会の有志7人が東日本大震災の被災地、柏原さん(会員)の故郷、亘理(わたり)町を訪ねた。

上野から新幹線で仙台、仙台から常磐線に乗り換え、亘理町まで4時間。ジャンボタクシーに乗り、荒浜公民館で語り部さん(ガイド)からビデオで当時の津波の被害状況の説明を受けたあと、震災から3年半が過ぎた町へ出かけた。

常磐道が内陸の堤防となり、海側と町側では津波被害の度合いが全く違う。居住地と非居住地の線引きが幅2mにも満たない用水路だった。除塩した土地と、していない土地では生えている草の背丈や色が違う。土台しか残っていない町並みに夏草が覆い茂り、かつてそこに多くの人が住んでいたとは想像できない。ただただ、あちらこちらに草が茫々と生えていた。

しかし一方では、高さ7.2mの巨大な防潮堤が出来上がり、学校が津波の避難所として整備されている。決して以前には戻れないが、それでも日常の生活に戻ろうとしている人達の意志が見えた。亘理町の児童、生徒は一人も欠けることなく無事だったことは特筆すべきことだと思う。後日談だが、9月28日我孫子市でコカリナのチャリティーコンサートが開かれた。亘理町の荒浜保育所へチューリップの球根を送るための催しで、思いもかけない縁を感じた。

仙台空港近く(岩沼市)に千年希望の丘がある。(写真)瓦礫や津波の堆積土の上に、縦60m、横76m、高さ8mの丘を企業や個人の資金で作った。丘は津波の緩衝材として陸の松島を目指す。最終的には既存の二つの丘と合わせて15の丘ができる予定だ。もうすでにボランテイアによる植樹もされていた。ここにもみんなの善意の強い意志が見られた。
千年希望の丘へ登る

仙台へ戻り、夕食の後街を散策した。街並みは美しく、大勢の若者で賑わい、かつてのバブル期の雰囲気にも似ていた。昼間見た風景とのギャップに戸惑いながらも安堵感が残った。この若者たちに復活以上のもの、成長が期待できると。

翌日は塩釜神社へ行き、ボランティアさんの懇切な案内で見学して、夕方無事に我孫子へ戻った。

現地に行って、自分の目で見て初めてわかることの多い、心に残る旅でした。飯田さん、柏原さん、綿密な計画、震災前と後の写真や新聞の切り抜きなど詳しい資料をありがとうございました。
ふるさと 亘理町荒浜                       柏原 健子(会員)
"人生に限りはあれど、ふるさとは未来永劫に変わらじ"と思っていた。そのふるさとの原風景が先の東日本大震災と大津波によって消えてしまった。

直後の惨状は、小さい町ゆえかニュースの映像にもならず、しばらくは何もわからず日が過ぎた。帰郷したのは二年後、町に家並みはなく道も寸断されて、復旧のための高い堤防工事のため、海も川も見ることが出来なかった。

今回七名の有志の方達で、被災地応援ツアーとして亘理町荒浜に行く機会ができて嬉しかった。

那須連峰から220kmあまりを流れ下り、阿武隈川が太平洋に注ぐ町、大河の流れの最終地点は、しずかに淀み、水が澄み砂が光り、かにや小魚が泳ぎ、水辺にはみそはぎの花が群生していた。背後には松の防風林があり、季節ごとに花が咲き、畑を作ったり、子供達の遊び場だった。近くに大きなしじみの採れる沼もあった。
海岸は荒浜の名の通り、波が荒い浜である。その広い砂浜には、漁師の網小屋が建っていて、老人が網を繕う姿もあった。夏は海水浴客で賑わった。砂丘には浜防風、浜昼顔などの花々が咲き、台風後の波打ち際には、くるみがうち上げられていて、拾って帰って食べた。そのすべてが無くなった時、どうして自然を壊すのだろうと恨めしかった。

今回の訪問で、語り部ガイドさんから震災時の状況について詳細に説明を受け、出来上がった堤防の上に立ち、白い波頭がくだける太平洋を目にした時、懐かしさと安堵の気持ちがこみあげてきた。

帰り際生家の跡地に寄ってみた。前回帰郷した折、波切地蔵が残っていて、目印になったのに見当たらない。作業中の重機の傍らに、赤錆びた賽銭箱だけが置いてあるのを見て、やはりここかと納得した。(左の写真) 

非居住地区となり、堤防も住宅地側に拡幅されて、生家の跡地は堤防の下になっていることだろう。

修復された頑丈な堤防に守られ、川の流れと広く大きな海がある限り、私の中のふるさとは永遠であり、これから復興、再生していく未来の町を見守る楽しみが待っている。

■もどる