【投稿】桜はどこで完結するか                                     桜井 幹喜(会員)
―近くの公園の桜―
ぼくの住まいは中峠の台地の上にあって、下はかつては谷津で、埋め立てられ350戸余りの住宅団地になっている。住宅地を作って売り出す形のもので、定年になったか金の工面がついたかの人が、自分のものにした土地に自分好みの家を建てて住み始めた。

土地は大半が家で埋まり、夏祭りも開かれるようになると、その中の大きい方の公園の整備もされ出した。いつ植えられたか定かではないが、35年ほど前から宅地造成されたのだからもう30年以上になるだろう。

ここは10本近いキンモクセイがあるが、中に3本の桜がある。30年もののソメイヨシノといえば幹も太く花も立派だけれどレジャーシートを敷いて花見をする人を見たことはない。ここに2本、遠くに1本では花見とシャレ込むのが恥ずかしいというわけか。

始終続く頭痛と耳鳴り、おまけに歩くと痛む足のぼくにはこの三本が、どこそこの一本桜や吉野の千本桜並みに嬉しい。それぞれの家の梅に続いて蕾をつけ、三分から五分、満開へと続くありさま。風が吹くたびにはらはらと散り木のすそを薄い紅に埋めていく移り変わりも、やがて葉桜になり、他の木々もとりどりに芽ぶいて、緑にこれほどの多様性があるのかと競って公園の縁をかたちどっていくのは春の深まりを感じさせ、悪くない。
―花見の誘いー
花の盛りのある日の夕方
  「花見にいったか?」
となつかしい声の電話。高校、大学といっしょで、偶然同じ我孫子市民となった木村くんからだった。

 「下の公園にいい桜があって、花はみている」
 「くすぶっていないで花見に行こう」

奥さんが入院している聖仁会病院から見おろす川村学園女子大学の桜が満開で、看病の合い間、はたと思いついて僕を誘い出す気になったらしい。
  「あそこのもいいらしいね。2、3日うちに自転車で見に行こうかとも思っているよ」
 「雨もあれば風も吹く、あっという間だ」
 「頭痛いし、耳鳴りはあるはで…」
 「ぐたぐたいっていないで、すぐ行くよ」

―桜八景のあちこちー
かくして障害者向けに改造した彼の車の助手席の人になった。『我孫子のいろいろ八景見聞綴り 其の三』を持ち出し、川村学園の桜並木が桜八景の一つに選定されているなどと話しているうちに成田街道に出て、
 「他にどこがある?」
 「手賀沼遊歩道とか、電研とか。これからなら布佐方面がいいかな」

車を止めてぱらぱらやって地図を見て
  「布佐南公園にしよう」
彼は世間にも植物にも通じている。運転している相手にぼくは目にしたものを次々に質問する。あの白い花はなんだ?ここの並木はなんだろう?梅や桃でひとつの木で二色の花が咲くのはどうしてかなどなど。質問に必ず答えが返ってくるから自分で何も考えずに声になる。

 「川があると必ず桜がかぶさるようになっている。どこの植木屋がやるのかだれが頼んでやらせているのか、支出も大変だね」

 「馬鹿だなあ、水に反射する光の方へ桜は葉を伸ばすんだ。根さえも下へ伸ばさず、太陽の方へ向かおうとする。シートベルトちゃんとしろ」
 「光を、光をってわけか。その学校も立派な桜だ。あっちもこっちも桜また桜だ。桃も何だか知らんがちょうちょの飛ぶような白い花もある。日本の春だね」

そんなやりとりの間に道に迷って布佐駅は目の前。
「線路(JR成田線)の反対側を走ったらしいな。踏切に出ないと…」



 「それにしてもこの街並み、公園みたいだな。計画的に造られている。公園の配置もちゃんとしている。うちなんかは小規模開発だからこうはならない」
 「行政の指導が入り、土地も提供させているんだろう。不動産業者が購入者に条件をつけることもある」

どうやらまちなみ八景の一つとか。やはり桜八景のもう一つ「宮ノ森公園」も横目で見ながら通り過ぎたようで、そのうちレジャーシートを敷いて足を伸ばしたいような、なだらかな丘のある景色が広がってきた。

―布佐南公園にて―
布佐南公園(我孫子市布佐平和台)

  「ここだ」
 「歩いてみる?」
 「当然だ、そのために来た」
  車を止めに行って戻った人に、「この花、何?」「とさみずき。それより桜だ」
 「やっぱり桜はたくさんある方がいい。並木にしても、この奥行き感にしても」

さすがのおしゃべりも時として静かにすることもある。そこへ
 「千鳥ヶ淵も見事ですよ」
とうしろから女性の声がする。ほかに人はいなくてふたり切りと思っていたから驚いた。さしずめ"花狩人"といったところか。女性用のチロリアンハットが若く見せている。

 「そうですか」
 「いろいろ見て回っていますから。この季節は忙しいですよ」
 「千鳥ヶ淵はシート敷いての花見は禁止ですよ」
と木村くんがいうと、その人は
「私も上野の桜の方がいい。下町的で庶民的で…」
 「ぼくにはここがせいいっぱいだ」
 「はい。どこよりも地元ですから。私も歩いてみて、ここもいいなと」

この人はなにがなくても花さえあれば、という人のようだ。「ではまたいつか、花のあるところで」というと、その人は路地の奥へ消えて行った。

 「頭痛も耳鳴りも忘れていたよ」
思わず帰りの車で話しかけると
 「忘れていたというよりも花と緑に身をゆだねている間に解き放たれたんだ。自然にはそうした力がある。もっと自然にとび込んで行かなければよくなるものもよくならない」

―桜はどこで完結するかー
叱られてしまった。桜は冬に耐えてつぼみをつけ、桜前線の北上とともに咲き、人に見られて完結し、きれいに散って葉桜となり来年に備えるもののようだ。帰りにはステーキまで食べさせてくれ、家まで送ってもらって別れた。

本日の結論。花もいいが、長年の友だちはもっといい、と思ってリモコンの電源ボタンを押した。ニュースでか、別の番組でかわからないが、「原発20キロ圏内」の光景を映し出していて、そこでは誰も見ない桜がむなしく満開を迎えていた。
(2015.4.17)
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