我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第70号 2015.11.21発行
編集・発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
我孫子景観基礎研究 その1:杉村楚人冠の"手賀沼ビジョン"に関する考察 
                                                                            建築家・工学博士 野口 修(会員)
■杉村楚人冠の"手賀沼ビジョン"−2
前稿で紹介したエベネザー・ハワードの実験都市レッチワースの着工が、1903年。

東京朝日新聞のイギリス特派員だった杉村楚人冠が、約2ヶ月のロンドン滞在を綴った『大英遊記』が、1907年の記録なので、実際のレッチワースを目にしたかもしれないと思った。

しかし、具体的な記録はなく、むしろ楚人冠が体験した「田園生活」の原点は、随筆"レムの里"にあるロイヤル・レミントン・スパやストラトフォード・アポン・エイボンと考えられる。

ただし、ハワード同様、スラム化した都市と緑豊かな田園景観の双方に触れて、資本主義の浸透とパラレルな生活環境の悪化に危機感を募らせたのではないかと考えている。

『田園都市』(1908年[明治41年])を編纂した内務省有志の官僚も同様の危機感を感じていたのではないか?実際、有志メンバーの中には、イギリスでレッチワースの実地調査をした者もいた。

この当時、一次産業就労者の比率は、日本70%、英10%、米37%、二次産業就労者は、日本18%、英48%、米30%である。
日本がまだ農業社会だった状況を考えると、今なら自分達の"指導"で生活環境の悪化を防げると考えたのだろうか。『田園都市』は、最初こそ欧米の田園都市を解説した魅力的な内容だったが、後半はナショナリズム満載の教条的な内容に一変する。

海外に比して、日本の「田園」が劣るものではないと、水戸の偕楽園など、国内の庭園事例を賞賛し始めたり、節酒など生活態度の"指導"まで論じられている。

一方、楚人冠は、手賀沼保全のために試みた県の淡水養魚試験場の誘致が地元住民の反対もあって頓挫すると、地元との意思疎通に心を砕くようになる。

地元の指導者達と座談会を重ね、俳句結社「湖畔吟社」をつくって青年達と交流する、いわば景観教育の場を設けたりもした。

こうした試みは、手賀沼一帯の「県立公園」指定など、一定の成果を挙げたものの、楚人冠の死後、戦後の食糧増産を名目に押し切られ、手賀沼の干拓事業は実施されてしまった。
左上:『大英遊記』表紙 左下:ロンドンと"レムの里" 右:イングランド中部の田園風景(絵:筆者)
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