我孫子景観基礎研究 その1:杉村楚人冠の"手賀沼ビジョン"に関する考察 
                                                                            建築家・工学博士 野口 修(会員)
■杉村楚人冠の"手賀沼ビジョン"−3
1923年[大正12年]創刊のアサヒグラフに連載された『續湖畔吟』の随筆"田園生活"(昭和6年)からは、 当時の楚人冠が、一日の半分を東京、半分を我孫子で過ごす生活を送っており、こうした "郊外"型の生活スタイルを気に入っていた様子が読み取れる。

ところで"郊外"とは、「通信と交通が発達し、都市の外に住みながら都市で働くことが可能になって、はじめて誕生した概念」で、都市の環境悪化に対応してつくられた地域とみる社会学者も多い。

楚人冠が我孫子に転居した1924年[大正13年]は、日本の沿線開発が活発化した 初期段階で、当時の中産階級や富裕層が都市を脱出し始めた時期でもあった。
  沿線開発の モデルとなったアメリカの郊外住宅街は「ブルジョア・ユートピア」と称され、特権的な イメージを漂わせていた。

こうしたなか「自然の中で暮らす」をコンセプトとする"田園的な郊外"がトレンドと なった辺りで、「田園都市」という言葉は本質を失い、こと日本においては不動産売買 のイメージづくりに使われ始めた。
実際、渋沢栄一らが1918年[大正7年]に設立した田園都市株式会社が「田園調布」 の参考にしたのは、E・ハワードの実験都市レッチワースでなく、米サンフランシスコ郊外の高級住宅街セントフランシス・ウッドに演出されたユートピア感だった。
  この様な時代背景から、楚人冠らの手賀沼保全運動には当初、別荘地として土地の値段を釣り上げる意図があるがごとく中傷されたりもした。
  しかし、楚人冠の真価はそうした状況にあっても自身の運動を貫いた点であろう。

戦後日本の"郊外"は、多くの移住者を受け入れ、大規模ショッピングモールやロードサイドの発達により、都心から離れた場所にも生活圏を広げて、無制限に開発された。今日、 我々が目にする"郊外"の景観はその結果である。

前稿で述べた通り、楚人冠は景観に対する価値観を地元の人々と共有することに心を砕 いた。一方で、人々の景観への関心が育つ時間を上回る速度で"郊外"の開発は進んでし まったのである。
"郊外"化のモデル図・説明文                 田園都市株式会社のブローシャー(絵:筆者トレース)
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