我孫子の景観を育てる会 | 第72号 2016.3.19発行 編集・発行人 吉澤淳一 我孫子市つくし野6-3-7 |
我孫子景観基礎研究 その1:杉村楚人冠の"手賀沼ビジョン"に関する考察 −4 建築家・工学博士 野口 修(会員) |
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■随筆"作らぬ花"の感性 『楚人冠のメッセージー愛する手賀沼と共にー』の42頁でも触れているが、『續々湖畔吟』の随筆"作らぬ花"(昭和7年)によると、楚人冠は欧米の人工的な庭園やガーデニングを好まなかったらしい。 「花壇を作って、草花を植ゑるようなことは、どうにも自分の好にあはない。その行儀よく列んだ所もいやだが一つところに故意とらしくかたまってゐるのもいやである。」と書いている。 楚人冠の自然観がどこに向いていたか理解するのは、この資料だけでは不足だが、自然をありのままの状態で活かすことを良しとする感性を持っていたことは確かだ。 同様の感性は、我孫子での一日を日記風に綴った志賀直哉の『雪の日』(大正9年)を読んでも感じられる手賀沼の雪景色を叙情的に描いた後、「本統に絵のようだ。東洋の勝れた墨絵が実にこの印象を確に掴み、それを強い効果で現している事を今更に感嘆した。所謂印象だけではなく、それから起って来る吾々の精神の勇躍をまで掴んでいる点に驚く。そして自分は目前のこの景色に対し、彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気がした。」と書いている。 |
両者に共通するのは"東洋的なもの"への関心ではないか。それぞれの著作が発表された当時の日本は、欧米列強と肩を並べるべく、様々な分野で西洋化を押し進めていた。 都心の建築は木造からレンガやコンクリート造に替わり、郊外化が進むなかで長閑な農村風景は次々と壊されて行った。 後に寺田寅彦は『日本人の自然観』(昭和35年)のなかで西洋と東洋の自然観の違いを、それぞれの宗教観から説明している。すなわち、一神教の西洋では神が造った自然を"制御"することが人類進化の道と捉えられたのに対し、多神教の東洋では全ての自然物や事象に神の存在を信じて敬い、"観察"することで災害をかわし、共生する道を選んだと。 そう考えると、楚人冠が南方熊楠の神社合祀反対運動に賛同したことにも頷ける。 強引な宗教観の操作は"東洋的なもの"の喪失につながると感じたのではないか。 |
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