我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第88号 2018.11.17発行
創刊 2002.3.29
編集・発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
我孫子景観基礎研究 その4  我孫子の旧邸跡から辿る白樺派たちの創作的視点に関する考察
    
                                                                                  建築家・工学博士 野口 修(会員)
4-3.武者小路実篤:「新しき村」以降の視点変化譜
  満2歳で父親を失った武者小路実篤は、母の手で育てられた。この母の実家、勘解由小路家は代々、儒者の家系で、幼少期の実篤は、この影響を多分に受けたと考えられる。白樺派を研究する同志社女子大学教授の生井知子は、著書『白樺派の作家たち』(和泉書院)の中で、トルストイズム・新しき村、各種人生論と、実篤が、生涯、正義・人道を言い続けたことは、母の影響と、その母からさえも正直すぎると評された遺伝的道学者性のためと説明している。

  大正5(1916)年から同7年まで、我孫子で暮らした実篤は、「新しき村」建設に向けて日向(宮崎県児湯郡木城村)に旅立つ。大正13年までの6年間を実篤が過ごした日向の「新しき村」はその後、ダム建設で半分が水没したため、1939年、埼玉県毛呂山町に建設された「東の村」に移転した。

  ところで、実篤の「新しき村」は、宮沢賢治の羅須地人協会などと比較されて共産主義的モデル農村とみる向きも多いが、前出の『白樺派の作家たち』では、〈一種のワークショップで、心身回復の為の集団的な試みだった〉とされる。すなわち、理想主義者だった実篤には、無心で取組む農作業を中心とした共同生活を通し、社会から抑圧された心身を解き放つ場所を創ることの方が重要だったと考えられる。
  武者小路実篤の創作人生は、大きく前・後半に区分される。後半生とされるのが「新しき村」を離村して以降の50年間だ。後半生の実篤は、南画に傾倒し、画家として約5万5千点の作品を残している。

  東京都調布市の京王線仙川駅から約10分歩いた『実篤公園』に実篤の終の住処がある。公園は、多摩川が武蔵野台地を削ってできた国分寺崖線上にあり、ハケの道に面した隣地には、『武者小路実篤記念館』も併設されている。手賀沼の地形に似たこの場所において興味深いのは、旧実篤邸が崖の上でなく、中腹にあることだ。我孫子時代、水辺の景観を好んだのは、“写実の名手”とされた志賀直哉だった。晩年の実篤は自身を小説中の画家“馬鹿一”に重ね、道端の石や雑草に神がかった美を見出し、それらを尊敬して自然の傑
作をなんとか描こうと真剣に取り組ませる。そして、この画家“馬鹿一”の“虫の目”こそ、晩年の実篤の視点だったと考えられる。
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