我孫子景観基礎研究 その4  我孫子の旧邸跡から辿る白樺派たちの創作的視点に関する考察
    
                                                                                  建築家・工学博士 野口 修(会員)
4-4.志賀直哉:我孫子時代以降の視点変化
  86号で“虫の目”と言い表した我孫子時代の志賀直哉の視点は、志賀が設計し、現在、『志賀直哉邸跡』に復元展示されている「書斎」からも感じ取ることができる。手斧の跡を残した杉材の柱や青桐の皮のついた床柱、湾曲した百日紅の落とし掛等、内装材、一つひとつに気を配り、素材の特徴を大切にした。

  一方、自身の足跡を残すことには消極的だったようで、大正12(1923)年、志賀が京都に転居した後、我孫子の建物は、それぞれ地元旧家に移築され、跡地は、昭和62(1987)年に市民の要望を受けた我孫子市が整備するまで長く更地の状態だった。

  我孫子時代の志賀直哉は、この地で「和解」、「城の崎にて」、「小僧の神様」、「暗夜行路」の前編、および後編の大部分を執筆し、小説家人生における充実期を過ごしたが、その後は急速に寡作化が進む。この原因について、『白樺派の作家たち』の著者・生井知子は、父との不和が志賀の創作における主なエネルギー源であったことを挙げ、昭和4(1929)年の父の死とともに文学史における志賀の仕事は事実上終わり、以降は良き“家庭の父”として、また“文壇の父”として、余生を送ることになったと説明している。
  確かに我孫子後の志賀直哉の住まいは、奈良市高畑町に現存する邸宅にしても、手賀沼湖畔の野趣溢れる印象は感じられない。立派な門構えの数寄屋風建築で、今でも奈良学園のセミナーハウスとして使用されている。この邸宅は、白樺派の文人や画家、陶芸家らが訪れ、志賀を囲んでの文学論や芸術論を交わしたことから“高畑サロン”と呼ばれたそうだ。

  『日本民藝館』に隣接する目黒区立駒場公園の一角に『日本近代文学館』がある。2016年に志賀直哉の原稿、書簡、写真等、約1万2千点が遺族から寄贈されて話題となった。この中には遺言も含まれ、「銅像、記念碑等一切建てるべからず。作品の小さな断片でも、それが何人の言葉とも知られず、後人の間に残ってくれれば自分は大満足である」と書いてあった。

  後半生の志賀には、“小説の神様”として、文壇を“鳥の目”で見る権威的な立場が与えられた。しかしそれは、父との不和も含め、権威的なものへの反抗をエネルギーとした志賀の創作意欲を奪い、寡作化に向かわせる要因ともなったのではないか?
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