特集 三樹荘と柳宗悦・柳宗理のこと
西郷どんも隠していた「秘密の資金ルート」           宮内 昭男(会員)
幕末の薩摩藩は、藩主の島津斉彬が篤姫を徳川家の御台所に送り出し、また大砲を始めとする近代兵器を購入する等、莫大な政治資金と軍資金を使っていたことは歴史的事実と言えます。

私は、日本最南端の田舎藩とされていた薩摩藩がどうしてこのような資金を賄えたのか、不思議に思っていました。通説では、密貿易やサトウキビの生産及び英国商人グラバーからの借り入れ等が資金の出所とされていますが、この程度で幕府に対峙できる膨大な資金が賄えたのでしょうか。

話は飛びますが、私は毎年沖縄に行って那覇市内を町歩きすると中国風の建物は目につきますが、琉球王国を支配していた「薩摩」のイメージを思い起こす「風物」が見当たらないのが、これまた不思議だと素朴に思っていました。

「薩摩藩」は1600年ごろから琉球王国に侵攻し、明治新政府の廃藩置県まで支配を続けていました。では、なぜ中国の面影を残す建物などが残っているのに、200年以上も支配した「薩摩」の面影はないのでしょうか。ここが、「西郷どん」を始めとする薩摩藩が隠していた、京都での政治資金と討幕の軍資金の出所の謎を解く鍵があります。

結論から申し上げますと、薩摩藩は琉球王国をダミーにして、中国をはじめとする諸外国と公式な貿易をして膨大な利益を稼いでいたと思われます。このことは薩摩藩主導の明治政府は勿論ですが、琉球王国も不名誉なことなので歴史の表で大きく取り上げられることはなかったと思います。
私が沖縄に行って不思議に思ったことは先に述べた「なぜ中国の面影を残す建物などが残っているのに、200年以上も支配した薩摩の面影はないのか」です。そこで出会ったのが那覇の青少年劇団が演じた舞台劇「琉球伝信録」でした。その劇は、中国の冊封使※(さくほうし さっぽうし)を迎え入れる話をメインにして、一人の若い芸人の反抗を織り交ぜて、琉球の人と薩摩から来た役人が翻弄する姿が印象に残る演劇でした。なぜ薩摩の役人が翻弄したかの理由は、薩摩の支配下にある琉球王国が、独立国ということで中国と正式な貿易をしていたからです。中国からの使節が来ている約半年間は、薩摩から来た役人は全員那覇から退去して田舎に潜んでいる苦労も演じられていました。このような実情であるなら薩摩(日本)風な建物が観光資源としても残っていないことが納得できます。

私は沖縄を訪れると、出生率日本一という羨ましい環境を作り出した沖縄のダイナミズムが感じられ元気が出ます。まだ、いろいろ難しい問題は残っていますが、「沖縄のしたたかさ」で現在は、本土より「豊かで楽しい生活を夢見ることができる場所」のように思います。次回、沖縄に行った時は「薩摩藩の面影」を探すのを楽しみたいと思っています。また、沖縄本島以北を薩摩藩に割譲された「奄美」も那覇発便で行き、「西郷どん」の面影を見てこようと思っています。

※中国王朝の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節をいう。(Wikipedia)
我孫子市郷土資料センター(仮称)設置の要望
当会は一昨年来、我孫子市史研究センターを中心に、我孫子ガイドクラブ、我孫子の文化を守る会、ふるさと我孫子ガイドの会、そして当会の五団体で「我孫子市郷土資料センターをつくる会」(以下本会)を立ち上げ、活動してきた。

昨年12月、市は「文化交流拠点施設建設構想(案)」のとりまとめに向けた中間報告を発表し、広く市民の意見・提案を求めることにした。それを受けて、本会はこの構想の中に「我孫子市郷土資料センター」を組み入れることの「意見書」を市に提出した(12月30日)。

意見書は、本会設立の趣旨、我孫子市史研究センターの取り組み、歴史文化遺産の常設展示場及び保存施設の確保、情報発信スペースの確保、近隣5市町の郷土資料館の概要からなっており、唯一この種の施設がない当市における現状と要望を記しているものである。
  
上の写真は龍ヶ崎市民俗資料館
提供:我孫子市史研究センター
「我孫子の景観」スライドショー リニューアル
各種会合や講演会開演前の時間に使える、我孫子の素晴らしい景観の映像がスライドショーとして、このほどリニューアルした。市史研究センターの昨年の歴史講演会で使用したものを改善して、2月の歴史講演会前に流したところ好評を得た。 「居ながら八景歩き」の映像もリニューアルしたので、いろいろな場面で使っていただきたい。
「我孫子の景観」は約20分、「居ながら八景歩き」は解説しながら、1時間ぐらいの所要時間。

■もどる