嘉納治五郎の銅像 我孫子に建立              飯高 美和子 (元会員)
嘉納治五郎の銅像が我孫子市緑一丁目の「天神山緑地」公園内の別荘地跡に建立された。2年前の春から銅像建立に向けて講演会を重ね、駅前街頭募金や市民観桜会での募金活動をして来た。市民活動19団体、多数の個人有志の方たちなど、幅広く我孫子市民の皆様の絶大なる支援・賛同をいただき、今日、手賀沼を遥かに見下ろして天空に聳え、威風堂々として雄雄しく我孫子の台地に立っている。

嘉納治五郎(1860〜1938)は神戸市灘区出身で、「柔道の父」「教育家」「オリンピック委員」として、明治末頃から、昭和の初め頃まで、日本に貢献し活躍した。


・銘板には寄付者の名が刻まれている。
・予定されていた除幕式は中止となった。
嘉納は1882年(M15、22歳)に講道館を設立し、世界に柔道を広めたが、その精神は「精力善用、自他共栄」にあるとした。その意味は"自らが持てる力を最大限に発揮して、お互いを高め合おう"ということである。そして「教育家」として、東京大学卒業し、後に文部省に入省。その後学習院大学教授、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の学長を長く務めるなどして、教育者の育成に尽力した。又オリンピック委員としても活躍し、1909年(M42)、IOC(国際オリンピック委員会)委員となり、1911年(M44)には大日本体育協会(現日本体育協会)の初代会長となる。

その後1936年(S11)には東京オリンピックの招致に成功し、1938年(S13)カイロでのIOC総会が札幌冬季大会招致を決めたが、その帰路に太平洋上の船中で病死し帰らぬ人となる。

◎我孫子との関わり
国際的に活躍していた1911年(M44)嘉納治五郎は緑一丁目に別荘地を購入し、白山にも2万坪の土地を購入した。後に嘉納後楽農園となる。この別荘地からの手賀沼のながめは、多忙な嘉納にとって大いに心の癒しとなった。そして農園を植物栽培に長けた松本久三郎に頼んで栽培したカボチャや桃の出荷は、この地域経済に大きく貢献した。市民との交流も盛んに行い、1925年(T15)「手賀沼保勝会」運動を杉村楚人冠や、村川堅固と起こし、また1929年(S4)我孫子ゴルフ倶楽部設立を協議した。一方では甥の柳宗悦夫妻1914年(T3)三樹荘に呼び、柳は志賀直哉を我孫子に住まわせる。そして、志賀が武者小路実篤を当地に呼んだ。こうして我孫子に1914年(T3)から1923年(T12)まで文化村が形成され、数々の民藝運動、文学、芸術が生み出された。

嘉納治五郎像の建立については、「我孫子の文化を守る会」の会報(2020.5.1号)に、経緯などが詳しく掲載されていますので、ご紹介します。
■会報175号へ
嘉納治五郎先生 手賀沼に向かって今何を想う 冨樫 道廣(会員)
・天神山緑地公園からの手賀沼の眺望も整備された

手賀沼に目をやっての無念のお気持ち、私には痛いほどよく分かります。

若い時から真の教育家を目指して、柔術にはげみながら、柔道の創始者として講道館を創設。学習院の教頭を振り出しに、五高、一高の校長を歴任、我孫子に来られた明治44年(1911)には高等師範の校長現役。それまでと合わせて約25年間、大正9年(1920)まで勤められました。師範教育には特に情熱を込められて、青少年の身体を通しての教育のため体操科を創設、現在の筑波大学に受け継がれています。

また、五高時代にはユニークな教員を集め、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や夏目漱石など脚光をあびました。その時の学生だったのが、先生を慕って我孫子迄やって来た村川堅固です。

その教育家としての集大成というべき、間近かに見えてきた高等学校改正令に合わせて、多くの都市が名のりを上げてきた矢先でした。弘前、山形、水戸、浦和、静岡、松本等でした。
先生はイギリスのイートンや、ラグビー校に代表されるパブリックスクールや、ドイツのギムナジウムにも負けない、尋常中学4年、高等中学33の七年制の高等学校を創設する遠大な計画を立て、この我孫子の最も景色の良い白山に広大な面積を確保したのでした。

それがなぜか文部省に却下されてしまうのです。何故でしょうか。先生は納得されているのでしょうか。官立だからでしょうか。でも大正12年には中野駅前に東京高校が官立で開校しています。私立は多く立候補しました。武蔵は東武の根津嘉一郎が、成蹊は三菱財閥がそれぞれの企業人材の開発育成のため、成城、甲南は小学校からの子供の一貫教育への発展へと、これまで、帝国大学の予備門だった8つだけのナンバースクール(一高・東京、二高・仙台、三高・京都、四高・金沢、五高・熊本、六高・岡山、七高・鹿児島、八高・名古屋)に加わることになるのでした。

その中でも先生の目指す我孫子の高校は先生特有の柔道から生まれた「精力善用」「自他共栄」をふたつの精神に代表される、自分を磨くことによって常に同居する他人をも社会をも同化する原理をその教育根本原理としていたものと思います。
不肖私の年令は、高校にあこがれた最後の年代でしょう。中学4年から高校は受験することができました。しかし中学3年の時、旧制高校は廃止。昭和25年(1950)その夢は消えたのです

先生が確保した広大な土地は、宇都宮農専から来た松本先生によって農園として運営され、後に分譲地として処分されました。

もし我孫子に高等学校ができていたらと想像するだけで、ゾクゾク、ドキドキしてしまいます。町並もかなり変わっていたでしょう。図書館と競るぐらいの古本屋がいっぱい並んでいたことでしょう。その間に球つき屋、雀荘。その前には料亭など。裏には芸者屋。その中を白線2本の破れ帽子に、寒くもないのにマントをひっかけ、腰手拭い。高下駄(デカンショ=デカルト、カント、ショウペンハウエル)で大闊歩。高吟、その歌は『デカンショ、デカンショで半年暮らす、ヨイ、ヨイ。後の半年ア寝て暮らす。ヨーイ、ヨーイ、デッカンショー』我孫子版の『貫一、お宮』が生れたかもしれません。

もう一つの先生の無念はオリンピックの誘致です。クーベルタンに乞われて東洋地区から初めてのIOC委員は、日本の嘉納治五郎先生でした。オリンピック開催は戦争で不調になってしまいましたが、この手賀沼を2千メートルのボートレースの会場に計画、設計まで完成させたのでした。それは恐らく高等学校で対抗競技に盛んだったボートレースも念頭にあったのでしょう。あとで加藤登紀子によってヒットした「琵琶湖周航の歌」など三高(京都)のボート部の寮歌だったといいますから、手賀沼と利根川に囲まれた我孫子高校のボート部は、コース、艇庫はどこでもあり、エイトだけでなくフォアもペアも、スカールも全部の部門で優勝したかもしれません。

とにかく嘉納治五郎先生は日本のスポーツの父であり元祖です。しかしその心は厳しく「心、技、体」という「日本のスポーツの根本」も嘉納柔道からの出発に他なりません。その先生は昭和13年(1938)IOCカイロ総会の帰途、太平洋上氷川丸の船上で劇的な生涯を閉じたのです。79歳でした。
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