〜その3〜
 【九年母坂】
平成14年に『我孫子の坂道ウォーキングマップ』を5巻作成し、図書館に納め、更に坂に関する資料を集めていた時のことである。市民図書館で「九年母や 沼に坂なす 我孫子町」という句を見つけた。なんと素晴らしい句であろうか。沼、坂、我孫子の3拍子が揃っているこの句に出会った時の喜びは今でも忘れない。何の文献だったか忘れてしまったが、作者は"横手艸雨"(よこてそうう)とあった。

さて、この坂である。この坂は我孫子の何処にあるのか。果たして今(当時)でもあるのだろうか。キーワードは三つもある。まず「沼に坂なす」とあるのだから手賀沼に向かう坂だろう。

次のキーワードは「九年母(くねんぼ)」である。調べたら南方系の柑橘類で日本でも古くからある事がわかった。秋の季語である。落語でも桂三木助の「道具屋」の枕で権助がお内儀の言いつけで九年母を届ける件がある。或る日、我孫子の文化を守る会の役員会で、旧我孫子町のどこかに九年母の樹がありませんか、と問うと、三谷会長(当時、現名誉会長)が、それなら興陽寺で見かけたことがある。とおっしゃった。早速お寺に出向き尋ねたところ、最近まで境内にあったが本堂改築の際山門の近くに移したら枯れてしまったとの事。実物は見られなかったが、興陽寺にあった事がわかった。

お寺の前の道を手賀沼の方に歩むとやがて道は下り坂になる。丁度、飯田医院の前の桜の古木がある辺りからである。「九年母や 沼に坂なす 我孫子町」九年母があるお寺の前の道を行くとやがて沼に坂なしている。間違いない、この坂だ。この坂は、「我孫子の坂道ウォーキングマップ」PART競魯韻瞭察柄ジ諭η鮖魁ξ弌寿)編の西コースに収録するのに何回も上り下りしたものだ。
(右上の写真:九年母坂から手賀沼を眺める)

九年母坂から手賀沼を眺める
三つ目のキーワードは作者の"横手艸雨"である。この人はどんな人なのか、どこの人なのか、これは何時頃作られた句なのか、我孫子町とはどのような縁があるのか、何故この道を歩いたのか、興陽寺とはどんな関係なのかわからない。誰に訊いてもわからない。人名辞典他いろいろと調べたがわからない。しかし俳人であろうことは次のことから判明した。

新潮文庫の改訂版俳諧歳時記「秋」の九年母の項に「葉は蜜柑に似ているが、やや大形である。初夏香氣高い白色の五辨の花が咲き、十月頃になると、蜜柑より丸く、柚子に似た實が熟する。酸味があり、香りがよい。」とあり、九年母と我孫子の句が2句載っていた。一句は横手艸雨のそれで、因みにもう一句は石田波郷(俳人、石田波郷全集参考)の「九年母や 我孫子も雪に なりにけり」である。俳諧歳時記に載っているくらいだからと新潮社に問いあわせたが、横手艸雨という人のデータは残っていないという。

念のためネットに「横手艸雨」と入れると、句は出てくるがその先のことはわからない。本編を書くにあたって、念の為にもう一度文化・スポーツ課を訪ねた。「楚人冠のメッセージ」の編集(平成24年4月に当会から発行)の際にお世話になった職員の今野澄玲さんに問うと、国立国会図書館オンラインで調べてくれた。昭和24年発行の雑誌「初雁」に横手艸雨の名前が出ているという。国立国会図書館の「遠隔複写サービス」でそのコピーを手に入れたが、それは横手艸雨が寄稿した俳句の定型についての論調であって、彼を知る手掛かりにはならなかった。九年母坂につながる横手艸雨探しはまだ続くのである。

                                                  瀧澤 正一(三樹会々員・元当会々員)
・三樹会活動も早15年が経った。ところが16年目スタートの出端を挫く緊急事態「新型コロナ感染拡大」の影響でやむなく活動が一時休止となった。

・三か月ぶりに緊急事態が解除された今日(6/16)、周辺の木々が新緑に衣替えした三樹荘に集い、久しぶりに庭と天神坂を清掃し箒の手を休め周りを見渡すと、なぜか懐かしく過ぎ去った時間の彼方が透けて見え心が和やかになる。

・ 三樹荘も誕生(明治45年)して約一世紀が過ぎた。一帯の風景が今日あるのは、この地に住む様々な人々が愛した風景や人々の交流の場が大切に守り育てられて来たためと思われる。

・誕生後の前半50年は、嘉納治五郎が設けた別荘を継いだ民芸運動の祖 柳宗悦のもとには志賀直哉・武者小路実篤など白樺派文人が集い、宗悦転居後も田中耕太郎・河村蜻山など多くの文化人がこの地に居住し、それぞれの時代が育まれた。特に、宗悦は、著書『我孫子から』の一節に「ここは地上の美しい場所の一つだと自分はよく思った。(中略)思想の暗示やその発展に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負ふた事であろう。(後略)」と記している。 
・誕生後半50年の現在までは、現当主村山家によって守り育てられている。今は亡き当主 村山正八氏(歌人・平成26年101歳歿)は昭和15年にこの地を知りその景色に圧倒され見初め、戦中、戦後を経て取得。昭和45年市制施行の年から居住した。三樹荘への思いは今も天神坂の碑に記され、また自作の短歌にも詠んでいる。
『智財寿のみ魂を宿す三樹荘に 文人達の夢甦る来る』
『三樹荘の木々と闘ひ苦しくとも此森にあって命長らう』

・著名写真家のカレンダー(2013)の1頁に刻まれた一言"明日への系譜"が頭に浮かんだ。
「良い風景は、きっと自然に寄り添いながら暮らしてきた人々と 人に守られてきた自然との繊細かつ大胆なハーモニー」綿綿と続く時を経て紡いできた調べを 明日へ次代へ。

・三樹会は、これからも人々の生活・文化に影響を及ぼす自然環境を そこに住む人々と一緒に守り・育てていつの日か我孫子の風土の一つとなることを願いつつ活動を続けたいと思っている。
      《令和元年の三樹会の活動》 
<実施回数>  26回 (前年 30回)
台風や新型コロナウイルス感染防止の自粛で活動日が減少しました。
<延べ人数> 男 143人 (前年203人)
       女  50人 (前年 60人)
       計 193人 (前年263人)
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・ 三樹荘と天神坂での清掃活動
・ 月3回(火曜日・木曜日)

<アビスタ屋上から見た天神坂> 7月筆者撮影
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