アビスタの屋上から北方向を見たところ。
正面に見える林の、およそ左半分が三樹荘で、右側が県会議員を務めた、故・井手口さんの敷地。
天神坂は、両家の間を通って、登る坂道です。

坂の登り口の地図
坂の登り口。住宅の間に石段が見えるだけの、ひっそりしたアプローチです。
大正の時代は、このあたりまで手賀沼の水がありました。
手賀沼湖畔を創作活動の拠点としていた志賀直哉や武者小路実篤たちは、小舟でここへ乗りつけて坂を登り、三樹荘へ集まることもあったとか。
坂の左側が三樹荘。1993年に市が石段を整備し、「文芸の坂」を感じさせる落ちついた雰囲気が漂っています。

   天神坂の記
  かつて我孫子が、北の鎌倉と言われた大正時代、文人達の集った三樹荘と椎の実の降る天神坂は、彼らがこよなく愛したという。
  耳をすますと、往時の人々の声が、足音が、轆轤(ろくろ)の軋しみが、聴こえてきそうである。
  この度、市がこの様な石段となし、私たちの憩いの道として整備された。遠き日の三樹荘が天神様の境内であった歴史の道、文学の径を私たちも愛し、守っていきたいと思います。
       平成5年春     三樹荘主 村山祥峰
天神坂を上りきって振り返ったところ。正面の門と右に見える家が、旧柳宗悦邸「三樹荘」。現在は歌人で郷土史家の村山祥峰さんの個人宅です。
門から入って、これが三樹荘の庭園。左には東屋が設けられています。

三樹荘という名前は、庭に3本の椎の大木があることから、そう呼ばれました。この椎の木に登っている、若き志賀直哉の写真が残っていますが、樹齢400年といわれる3本の椎の木が、当時のまま残っています。
昔はこのあたりまで天神様の境内で、3本の椎の木はご神木でした。それぞれに「英知」「財宝」「長寿」という名前がついています。

当時の三樹荘主・柳宗悦(むねよし)や、この庭に集った柳田國男、志賀直哉、武者小路実篤といった文人たちについては、白樺文学館が専門ですから、そちらのホームページをご参照ください。
■白樺文学館
手賀沼側の玄関アプローチから、椎の木と居宅を見上げたところです。
屋敷の西側は、古墳で高台になっており、ここに英国人陶芸家バーナード・リーチの登り窯がありました。バーナード・リーチは、柳宗悦を「生涯の最高の友人」と評したそうです。
●取材に訪問したとき、丘上の樹木を何本か伐採しているところでした。隣家への陽当たりや、落葉のご迷惑を考えると、ある程度樹木を切らざるを得ないということです。
斜面林の景観を保全することと、近隣住民の生活環境とバランスを図ることの、むずかしさがあります。
柳宗悦の後、1953年からここへお住まいの村山祥峰さんは、2003年で卒寿(90歳)を迎えましたが、歌会に研究に講演に、元気に活躍していらっしゃいます。

文化財ともいえる、貴重な三樹荘の庭園を、個人として維持することが悩みと、おっしゃっていました。敷地を我孫子市に寄贈して、居住し続けることは可能か、庭園の管理や落葉の清掃などをボランティア団体に協力いただくことはどうか、市と相談・協議していきたいと語っていました。
三樹荘の見学希望について
村山さんは、在宅であれば訪れる方には、庭へお入りいただいているそうです。
ただ、個人のお住まいですから、単なる見物でなく三樹荘の歴史・文化に充分関心のある方が、お越しください。
まず白樺文学館へ立ち寄るなどして、柳宗悦や志賀直哉など我孫子に住んだ文人たちの史料にふれてから、天神坂を上るのもよいでしょう。
(作成:2003.11.24)
●村山先生は2014年7月、満101歳で亡くなられました。ご冥福をお祈り申しあげます。

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