― 我孫子の歴史景観を探る ― その(5)
文化と歴史の白山・根戸を散策する
我孫子の景観を育てる会
道順ご案内
我孫子駅南口発・着 距離5.5km

コースg@〜M

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我孫子駅南口を直進し、 十字路交差点横断後  八坂神社 から"水戸街道"(356号線)沿いに右折170m歩いて、コンビニを左折すると"白山通り"です。

数10m程入った左手の岡田建商店さんのお宅は、築60年になる木造3階立のお宅です。
白山の築60年3階建木造家屋

→耳鼻咽喉科飯田医院付近@からの手賀沼風景は素晴らしいです。
A白山七つ坂 の東端、通称"白山坂"を下ります。左手の方向には B中勘助仮寓跡 の旧家高嶋家があります。
→坂を下って右折して白山下の小路を歩きます。
→約300m先の三つ目の石段坂を登ります。この石段坂は急ですが、両側は庭の植木があるので楽しみです。→

三ッ目の坂 根戸古墳公園 根戸水神宮付近

坂の上から眺められる手賀沼と沼南の森の風景も素晴らしいです。
この白山丘一帯の景勝の地には C白山古墳群 があり、路の右側から"白山通り"にかけた一帯は、嘉納治五郎ユートピア学園 D嘉納治五郎農場跡 です。
突き当たりの家は、先生の農園で農業経営を行った松本久三郎氏 E松本家 の一画です。 そこを左,左へと歩きます。 → 白山2丁目西端の緩やかな階段坂に来ます。
ここは冬の晴れた日などに富士山が良く見えます。

→ 階段を下りて、そのまま「根戸・船戸古墳群」下の"はけの道"を進み、2km地点の角を入って坂を登ると F根戸古墳公園(根戸・船戸古墳群)に行きます。

→ 公園左から路に下りて行くと、南端に階段坂があります。その階段を下り,真向かいのG"船戸の森"に立ち寄り静寂に浸り、森林浴をしながら東屋で休息。船戸の森公園からの手賀沼を木立の間から眺めるのも好いものです。

公園西端まで行かず東屋から戻り,東側の別の坂道を下ります。
→ この付近から本来の"はけの道"になります。 雨季に入ると斜面の帯水層から湧水があり、この路はひどい時は水浸しになります。「水捌けの路」です。→

"船戸の森"西端の坂路  "はけの道"から見た根戸城址の森

"船戸の森"南側の根戸新田には H根戸新田名主邸 現飯泉家(旧跡羽倉外記代官預所跡 )の大きな私邸があります。
近くには水神宮、その先に景観賞受賞の白壁屋敷塀の I神戸邸 があります。
→神戸邸の西端から右折して、昼尚暗い"船戸の森"西端の坂路を上ります。
上り先の直ぐ左を行くと、突き当たりは三協フロンティア社長所有の「我孫子山荘」  J旧武者小路実篤邸がある。近所には、途中の休息に好都合な喫茶店があります。
また来た路を戻り坂路を下って戻りますが、"船戸の森"の西側を覗いてみるのも良いでしょう。

根戸城址、金塚古墳は私有地のため現地に入れないので省略も良いですが、 "はけの路"に戻り、路沿いに300m行くと遠方、コンクリート壁上に広がる森には平成16年度景観奨励賞の K根戸城址と、それに隣接する L金塚古墳  があります。

→もと来た路を J旧武者小路実篤邸入口の坂上まで戻ります。そのまま、船戸の住宅街を直進し、200m先の変則十字路で突当たった駐車場(4km地点)を右折します。そして200m先を左折して我孫子第四小学校に向います。
小学校向のJR歩道橋からは旧水戸街道になります。
→ 小学校から200m程の幼稚園入口を入ると M馬頭観音  があります。
元の道に戻り、400m直進して駅前交差点を左折すると我孫子駅です。
馬頭観音
< その他の名所 >
国道6号線沿いの台田には公園 法花坊遺跡 と近接する北星神社 があります。
名所解説
[1]   文化と歴史の白山・ 根戸
白山坂六角堂付近からの手賀沼
B中勘助 仮寓跡
 中勘助は、大正9年家族の不幸から逃れるように白山の高嶋家に来て、手賀沼の自然に心を癒し多くの作品を出した。「沼のほとり」「堤婆達多」などの作品がある。
 
「沼のほとり」 の文章からスケッチ風の文章を拾ってみた。
大正十年一月一日 ……  沼は温かさうにとろりとをどんでゐる。懸けほした唐辛のてらてらした赤い色。私はことに裸木の幹や枝を美しいと思って眺めてゐる。……

二月二十二日……  緑の丘の松、赤黒い杉のあひだに榎かなにかほんのりと赤らんで、鳥の綿毛のやうにふわふわと枝をひろげてゐるのがみえる。沼はてらてらと淀んで鰻かきの舟が幾艘も出てゐる。
四月十九日 ……  日がさっとさしてきた。いつのまにか雲がはれかかってゐたのである。風上のほうによっぽど青空がひろがってきた。雀がちゅくちゅくと囀りはじめた。雨に濡れた杏の花が色はあせながらも照りはえてゐる  かつしかや手賀の大沼に雪ふりて  鳰*のなくきけば君ぞ恋しき
*(にお)とよみ、カイツブリの古名 八月九日
…… そんなにして永いこと憂鬱なすさまじい日がつづいたのちこの頃の酷烈な暑さがきた。沼は溶銀のやうにとろりと湛へ、森も畑も青白くかすんで、光に白む空を燕が声もなくとんでゐる。……

九月十五日    秋になった。冷たい雨がふる。ところどころに鳴子が立ってなってゐる。その原始的なしかけと、いかにも秋にふさわしいからからした音がすきである。……

十月二十一日
 朝。さらさらと雨がふる。睡気をさます百舌の声。蜜柑や蜂屋柿の美しい濡れいろ。
A白山七つの坂
 東端の白山坂は昔からの坂道で六角堂を左に見て下る。下りながら住宅の木立の向こうに見える手賀沼と沼南の森の風景を面白おかしく眺めることが出来る。冬の木立ちが特に良い。
 西端の坂は西に向かって下る木製の階段坂で自転車を持って下ることが出来る。秋や冬の空の空気のきれいな午後には富士山が観える。
 その間の住宅地の路地から下りる五つのコンクリート階段坂はかなり急である。しかし手賀沼の水面から反射する湖水の風景は、時々刻々と風に揺られるように変化し、これも楽しい。
C白山古墳群
 縄文前期の出土品がある。白山古墳は我孫子の古墳時代後期、6後半〜7世紀前半の12基から成る群集墳で、家父長家族とその兄弟・姉妹の直系親族として、家長の古墳に一緒に入る家族墳の形態である。根戸・船戸遺跡を含めると延長100m間の台地に19基が分布します。
白山1号墳から出土の直刀と鉾;千葉県の歴史より 古墳群のあった白山の坂からの手賀沼
全国的な古墳造営ブームが起きた頃のものです。横穴式石室は二つに分かれている。銅鋺、鉄鏃、ガラス丸玉、水晶切子玉、首飾り、長大の刀多数などが出土します。
DE嘉納治五郎農場(嘉納後楽農園)跡と松本家

 嘉納が理想の学園設立するため興陽寺南に取得した2万坪余の農園。大正8年農業技術を学んだ松本久三郎を迎えて農業経営を行なった。
  当時、近隣農家では作らなかったナス、カボチャなどの野菜と植木養成、果樹栽培も行なった。

  農具は馬、4輪荷馬車、馬農耕具などを用いた。その後種々の理由で農園は分譲されたが、1部は小規模ながら松本農園として引き継がれた。
M邸
F根戸・船戸遺跡(根戸・船戸古墳群);根戸古墳公園
根戸船戸古墳群出土の須恵器 ;千葉県の歴史より
7〜8世紀の古墳が、手賀沼を望める景勝の地、白山中学南側台地一帯に6基、点在します。 縄文早期・中期〜と古墳時代の前方後円墳4基と円墳2基があり出土品の多い集落跡です。古墳が全国的には造られなくなった7末〜8世紀初のもので、我孫子古墳群の中で最も新しい。最近市川国分寺で出土する瓦と同種の瓦が発見され、我孫子西部を本拠にする首長か子か孫の後の世代に、国分寺の瓦を手に入れて先代の古墳近くにお寺を誘致すると云うような事があったと見られる。4基の前方後円墳の西端の1基が根戸古墳公園になっています。
船戸の森東屋  根戸新田名主邸(現飯泉家宅 )
G戸新田名主邸
旧跡羽倉外記代官預所跡。現飯泉家宅、水害管理に関わる訴訟を解決した名主八十郎が建てた家。
H神戸邸の白壁塀 白壁塀と大樹林、湧水、第3回景観賞
神戸邸の白壁塀 湧水池 え高野瀬
K根戸城址
 大井川から根戸に上陸する船戸の船着場に近く、常陸北路に通じる布施に向かう交通の要所を抑える位置にある。築城様式は戦国期のもので、城主は根戸三郎胤光(1290)と言われるが不詳。在地小領主の築城したものであろう。その後文明年間(1478頃)大田道灌が千葉孝胤を酒井根で破った後改築して城砦の形にしたという説がある。手賀沼を挟んだ対岸に戸張の城址、北西には松ヶ崎城祉が近い。根戸の地名は鎌倉時代まで遡れるものではないが10世紀東海道の茜根津(アカネズ)を根戸とする考え方がある。
 現在この城主で居られる日暮朝納さんは本当の城主は判らないが、旧日暮家の小野家から分家して7代目と言う。(景観あびこ 2号 インタビュー)
L金塚古墳(根戸)
根戸城址と金塚古墳測量図 勾玉文鏡と留め式短甲;千葉県の歴史
我孫子市古墳時代初期、5世紀後半の円墳である。埴輪の他多数の出土品がある。
根戸城郭の西側40mに位置する直径20m、高さ2mの高まりである。東葛飾最大の前方後円墳の水神山古墳に次ぐ古い古墳である。短甲、鉾、銅鏡、須恵器、しっかりした埴輪、滑石製のすばらしい石枕でなど近畿直送と思われる副葬品を見ると水神山首長から2,3代目の首長として、大和政権と直結した者で、交通の要衝を抑える武将であったのではと考えられる。(測量図は我孫子市埋蔵文化財報告第1集より引用)
M馬頭観世音
六観世音の一つ。六道の内畜生界に苦しむ衆生を救う仏。しかし、頭上に馬頭を載せている事から馬の守護仏と考えられるようになった。馬頭観音塔が建てられるようになったのは江戸時代になってからである。当時、旅人は我孫子宿に入る手前の目印としていたといわれる。
 < その他の名所 >
*法花坊遺跡     国道6号線沿い台田にあります。
 縄文前期の包含地であり、中世相馬惣領家・相馬御厨の中心で巨大な館跡と土塁を残す集落跡でもあると見られています。しかし相馬惣領家については、南北朝の騒乱で南朝方について滅亡したため資料が消滅している。またその後の戦国時代には千葉氏の一族の原氏とか円城寺氏が台頭しこの辺を押領いているため相馬氏の本拠が判らなくなっていると考えられています。構造は簡素で防御性は高くない。周辺に「中馬場」といった字地名がある。現在は台田四丁目の跡地に公園が出来ている。

法花坊遺跡(台田四丁目公園) 出典 我孫子市埋蔵文化財報告第1集
6号線沿い我孫子市の西端に位置する。相馬氏の所領時代に立てられたとされ、妙見宮と呼ばれた時期があった。相馬・千葉氏と関わりある宮。東に相馬御厨の中心とも考えられる法花坊の巨大な館跡土塁がある。
平成18年6月
文責・梅津一晴
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