今月の本棚、中村良夫著の「風景学・実践編」について起稿したのは11月半ばの頃だったと思うが、風景を目ききする5つのキーワードの中で、風景を視覚で見るよりも、触感覚の「身体」に触れるという項に、著者が推奨する白洲正子さんの「かくれ里」(1972・読売文学賞)の中で、近江の石馬寺(いしばじ)の庭の岩山と置いてある石との身に触れるような感覚を表現するのを紹介しているが、私を含めて感覚の鈍いものには難しい。かなりの説明もあったが、字数もあって省略させてもらった。

  その矢先、夕刊(日経新聞11月28日)「文学周遊」に白洲正子さんが登場したのである。話は現存する白洲一家が戦争中、農家の家屋を買い取り住んだという、東京鶴川村の話で、それが正子さんの「鶴川日記」になって今なお読まれている。そして白洲一家の茅葺き屋根の残る旧家屋はミュージアムとして「武相荘」の名を付けて、正子さんの書斎などを公開しているというのだ。

  その正子さんのご主人といえばそれは「白洲次郎」。あのワンマン総理大臣吉田茂の「懐刀」として有名だった。彼は、吉田首相とは比べものにならない、容姿端麗、スポーツ万能、イギリス仕込みのダンディズム。話す英語もネイティヴそのもの。頭ごなしに日本人を年齢12歳とバカにするマッカーサー以下戦勝国のものども、司令部(GHQ)に対して、それに追従しない態度は、敗戦に打ち拉がれた我々日本人を勇気づけ奮い立たせてくれたものでした。これを称して、当時、日比谷から丸の内界隈では「白洲次郎ブーム」が起こったものでした。

  鶴川村は今の町田ですが、その「鶴川日記」にも出て来るのが当時の夫妻を訪れる、河上徹太郎や小林秀雄などの横顔がよく見えるのでした。近所の村人たちも、どうつき合ったらと戸惑い、むしろ子供たちが、ハイカラなトランプでポーカーを教わったり、新しい遊びに喜んでいたようでした。

  以上が第一の偶然でしたが、それ以外にも偶然に見舞われます。それは「柳宗悦」です。またもや日経新聞、17日過ぎから10回の連載で、「柳宗悦が見た『美』十選」というのが始まったのです。
  中村良夫の本書では、我孫子が風景実践には参入させてもらったとは言え、それは白樺の一員としての柳と志賀だけでした。それも作家という有名人のせいか、言葉でしか言い表すことが出来ず、しかも柳特有の「民藝美」というのですが、我孫子の風景とは一般の人にしっくりしないのです。それほど柳の宗教哲学はわかりにくい。誰かもっとわかりやすく教えてくれる人がいたらと思ってもそれはかなわぬことなのでした。それがここに現れるのかと思うとワクワクしないではいられませんでした。

  第一回に登場したのがセザンヌの油彩画「風景」でした。これが若者を熱狂させて、白樺の同人たちは資金を募って、白樺美術館を創設しようとしたが不調に終ってしまいました。これぐらいの西洋美術から柳の民藝思想が始まるのかと思いきや、そうはいきません。2回目の本論にはいって、柳が27歳の頃、中国を訪ねた折に興味をもった「陶俑(とうよう)」という墳墓の副葬品としての陶製品がその始まりでした。俑(よう)と言う単語は辞書でも中々見つかりません。しかし、シリーズの中に現れたこの陶俑は素人の目にも実に立派なものでした。これ以来柳は盟友の河井寛次郎や濱田庄司などと、朝鮮工芸の本質は民族固有の造形美であるという信念をもって取り組むことになるのです。そしてここから柳宗悦の仏教哲学の心髄は見えてくるのですが、「妙好人」(柳の研究対象となった仏教人)と同様な素直な人々の力作である「民藝」というものを、これまで人々は安ものという意味で「下手物(ゲテモノ)」と言っていましたがこれを「民藝」と言い替えたのです。

  「民」は「民衆」や「民間」の意、「芸」とは「工芸品」と説明して、柳は独自の芸美論を展開、更に雑誌「工藝」を創刊するなど・・・そして多くの識人の賛同を得て、1936年「日本民藝館」を創設、「民藝」と言う新しい美の概念の普及と、「美の生活化」を目指す「民藝運動」までに発展させることになるのです。しかし我孫子にどれほどこの「民藝」が根付いていたのか、そして、我孫子の風景にどれほど、普及していったのか、これを探るのはこれからの問題です。

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