吉澤 淳一(会員)
(P4からのつづき)

【百年前 百年後】
更に価値ある資料を発見した。「私たちの町と沼」という子どもたちの作文である。今から104年前の大正12年に、我孫子尋常小学校・高等小学校の生徒さんが書いたものだ。それは「郊外」という雑誌に掲載されていた。11編あった内の1編を紹介しよう。

  『手賀沼はみどりこい山にかこまれてゐてまはりはあおあおとしたよしが生へています。手賀沼の長さは、三里半あります。山の中には、べっさうがたってゐて、都會の人がすずみに来ます。私どもは沼をしゃせいに行きます。沼からとれる魚は、汽車のべんとうの中にも入れてありますが、うなぎが一番めいさんださうです。』(原文通り)尋常小学校四年生

他にも、美しい手賀沼の朝夕の光景を讃え、そこで遊んだり船に乗ったりした、のどかな日常が記されている。

沼が汚れたり、魚が取れなくなったり、周りの緑が失われていくことなど、微塵も思っていない当時の純真無垢な子どもたちの気持ちが表れていた。

こういう一文もあった。『・・・付近には近頃所々に別荘が出來ているし、この後、橋さへかかれば、沼向ふとの交通も一層よくなり、又景色もひときは眺めをまして、益々手賀沼の名がひろまることだろうと思ふ。』(原文通り)高等小学校二年生

子どもたちにとって、別荘の存在は大いに気になるところなのであろう。驚いたのは、100年前に"橋が架かったら交通が良くなり、手賀沼の名も広まる"と希望していることである。手賀沼に橋が架かるのは、その後41年も経った昭和39年である。

この作文に呼応するように、現在の我孫子第一小学校、我孫子第四小学校、高野山小学校の一年生から六年生の18人に「百年後の手賀沼」を作文にしてもらった。今の姿を、特に環境面を直視して、自分たちで出来ることは何かを考え、みんなの力で、百年後の水清く緑の濃い手賀沼を願っている気持ちに胸を打たれた。一つ紹介したい。

  『命の手賀沼 手賀沼は、きれいにしていくべきだ。それは、当たり前の事だと思う人もいるかと思いますが、私はその当たり前が今、とても重要だと思うのです。人のためにも、魚のためにも我孫子のシンボルは手賀沼です。たまに友達と見に行くと「本当に手賀沼はきれいだな」と、思います。ただ、それは遠くから見た時。じっさいに手ですくうと、茶色くにごり、きれいだとは言えません。手賀沼のわきで一ぴき死んでいる魚を見つけた事があります。私はその時、悲しくなりました。「命を無くす手賀沼はきっとだめだ」だから私は、百年後は「命を無くす手賀沼」よりも「命を育てる手賀沼」の方がいいと思います。じっさいに、魚達を殺していっているのは私達です。だからこそ、きれいにしていくのが一番いいと思います。きれいな沼の中で魚達が笑い合ったら、沼はキラキラと光り、周りの草も青々とゆれる、そんな手賀沼に私はしたいと思います。』(原文通り、六年生) 

これを読んで、このプロジェクトを立ち上げてよかったとしみじみと思った。そして、39人の識者の方々にも「百年後の手賀沼に寄せる思い」を書いてもらった。メンバーがお一人お一人を訪問して、趣旨を説明し子どもたちの作文を読んでもらって、貴重な思いを綴ってもらったものである。紹介する紙面がないので、他のところと併せて時間のある時にゆっくりと読み返していただきたい。

【果てしない作業】
一つの資料を読み、解析して取り扱いを検討・議論する。それを延々と繰り返す。時には激論も戦わす、沈黙が場を支配する、納得と妥協の狭間で悶える日々を送る。夏が二回過ぎても先が見えない。焦りと自分自身への怒りから、私の口調も荒くなる。みんな我慢してくれた。感謝である。
創立10周年記念事業にもなった。

序章:美しかった手賀沼 第一章:手賀沼は何故残ったか 第二章:手賀沼をこよなく愛した楚人冠 第三章:未来の手賀沼。

全体構成が見えてきたのは、平成23年の暮れだった。あとは力仕事である。A4版78ページに14ページの資料編を加えた大部である。題字は濱野さと子さん(故人)の筆によるものである。予算の関係で、市民活動ステーションで印刷して、製本のみ印刷会社に持ち込んで、いやな顔をされたのも苦い思い出である。500部刷った。平成24年4月、再び楚人冠の墓に詣でて「楚人冠のメッセージ」刊行の報告をした(下写真)。



発行後、瀬戸さんより表現や多くの誤字・脱字についてご指摘をいただき、そのことはいまだに汗顔の至りである。

当会が創立20周年を迎える今、95年前に杉村楚人冠が"愛する手賀沼のために"成し遂げた偉業の航跡を、再びかみしめていただきたい。私たちの活動の原点を示唆している本書を、棚から出して読み、今後の活動の礎にしていただければ幸いである。

【発行までの道程】
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