-15-  野田市のまちを歩く  10月13日(水) -16- 取手市小堀地区を訪ね、
             古利根沼を巡る
11月10(水)
予報通りの雨模様になったが、歩く距離が短く施設見学が主だったので、悩んだ末決行した。美術館が人数制限していたため予約制にして10人の参加。

野田市駅から、野田市郷土博物館と国の登録有形文化財の市民会館(茂木家の屋敷をそのまま利用している)(写真)、茂木本家美術館MOMOA(モダンで丁度いい広さ)、興風会館と巡った。醤油の歴史を知り、街のスケールの大きさに驚いたおでかけだった。(幹事:鈴木洋子)

好天に恵まれ、参加者11名で湖北駅北口をスタート。古利根通りを進み、足尾山神社を経由し、取手市小堀地区に入る。
八景歩きでは古利根公園・自然観察の森から見る景観に魅せられたが、今日は念願叶い、小堀地区から、古利根沼の広がりと斜面林を見ることができた。とても我孫子市とは思えない雰囲気に見とれ、沼辺に建つ静かな佇まいの洋館に感激。常園寺で小休止(写真)。ぐるりと回って我孫子側へ。また別の古利根沼の姿を見せてくれた。気の向くままに道草。少し疲れ出て小休止しながら、法岩院、中峠亀田谷公園経由で無事湖北駅に到着した。12400歩のおでかけだった。(幹事:飯田俊二)
よみがえった倉敷の思い出        濱田 洋子(会員) 
冨樫さんの温かいスケッチ画と、1行目の「倉敷市」の文字に惹き付けられて、景観の本棚7「浦辺鎮太郎作品集」を一気に読みました。同時に倉敷での思い出が蘇えりました。倉敷市には3回訪れています。

私は、小学6年生(1948・昭和23年)の時から結婚するまで広島市に住んでいました。就職して2年目の1958年、岡山に出張した折に時間を見つけ、念願の倉敷の大原美術館を訪ねました。就職してやっと自分のお金で平凡社の月刊「絵画集」を購読して、いつか実物の西欧絵画を見たいと憧れていたのです。イオニア式柱の古代ギリシャ様式の美術館の外観に、先ず感動しました。倉敷の実業家大原孫三郎氏によって1930年に開館した、日本で最初の西洋美術、近代美術を展示する美術館です。2回目は、1960年に婚約中の夫と倉敷に行きました。原爆で廃墟となった広島は、平和都市復興建設の最中でした。雑然とした広島から訪れた倉敷の佇まいは、日本の古都の雰囲気と近代建築とが融合した落ち着きと安らぎを感じさせてくれました。
まちづくりにあたって、倉敷を日本のローテンブルグにしようと、2代目大原總一郎氏は浦辺鎮太郎氏を牽引していったと記述されています。30年前、夫とローテンブルグを観光しました。冨樫さんのスケッチ画を懐かしく拝見しながら、思い出に耽りました。

3回目に倉敷を訪ねたのは、2004(平成16)年でした。広島で同窓会があり、我孫子から新幹線で途中下車して大原美術館に直行しました。モネの「睡蓮」の小さな額を求めました。大原美術館分館にも行きました。この度、分館が浦辺鎮太郎氏の建築と知り、更に倉敷を訪ねたくなりました。機会があれば是非、倉敷に行かれることをお勧めします。

冨樫さんの「景観の本棚」で倉敷の思い出が蘇り、ありがとうございました!

ステキな掲示板/残念な掲示板        秋田 桂子(会員) 
毎年、役員が替わる我が町会の掲示板は、放置されたまま用をなしていなかった。たまたま全く顔も名前も存じ上げなかった副会長さんと出会い、掲示板の事を話すと、数日後には、子どもも惹き付けられるような季節感のあるステキな掲示板に!
筑波山が遠くに見える田園八景の一つである北新田は、私の散歩コースである。その土手に、バーベキューの後始末をされなかった空き缶やコンロが置き去りにされていた。
誰かが市に通報したらしく掲示板が立った。その後、風雨に晒され、その掲示は撤去された。こんな掲示をしないで済む町にしたいと思う。
編 集 後 記  
今号は、緊急事態宣言解除後の「八景歩き」「おでかけ倶楽部」の散策レポートや取材記事、寄稿文など久しぶりに沢山の方たちが書いてくださいました。
空気の澄んだ晩秋を散策する人達から、若干の開放感と仲間と歩ける嬉しさが満ちあふれているようでした。
今年を振り返るとコロナ禍で出来たこと出来なかったことがあり、出来たことの第一位は20周年記念講演で、8月に無事に開催できました。手賀沼を囲む3団体が集ったことは意義のあることでした。来年のことを語るには早すぎますが、いい年で楽しく活動できるよう願うばかりです。(中塚和枝)

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