(P1からの続き) | ||||
一方、第二次世界大戦時に空襲で破壊された仙台市のような地方都市を見ると、江戸時代の青葉山から広がる城下町の町割を踏襲しつつ戦災で失われた中心市街地には新たな街路や公園が整備され、歴史の積み重ねが造った街路樹と景観の関係を見ることができる。もともと伊達政宗が植樹を推奨したこともあり、明治時代の観光誌には「森の都」と紹介され、それが大正時代に「杜の都」と言い換えられるなど、仙台市民の中に樹木が創る景観への意識が根付いていたのではないかと考えられる。 市街を歩いて見ると、ケヤキ並木で知られる青葉通や定禅寺通では多くの祭りやイベントが催され、冬場は電飾で人の目を楽しませている(写真3、4)。加えて北目町通のユリノキ並木や愛宕上杉通のイチョウ並木など、街路樹のある景観が地域生活に溶け込んでいる感じが、記号のごとくドライにデザインされた埋立地との歴史の差ではないか。 以上、本項では、街路樹と景観、都市デザインの関係について、筆者が思いつくところを論じた。 |
正直「街路樹」のあり方については様々な事例があって、筆者自身も明確な答えを持つものではないが、手賀沼公園・久寺家線が開通し、公園坂通りやオオバン通りの使い方や、景観への取組みが気になる今、街路樹が果たす役割や効果を検証することは、議論の端緒として重要と考えた。次回以降は、街路樹の保全に公金が使用されることを踏まえ、今回論じた都市デザインの側面に加え、街路樹の設置が引き起こす弊害やその対策、樹木だけでない新しい緑化の方式についても検証してみたい。(続く) |
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白樺派のまちの見える化 その5 ― 実現に向けて ― 吉澤 淳一(会員) | ||||
我孫子駅前の白樺派文人たちの写真プレート前(109号)から出発して、城崎(110号)、塩原(111号)、鬼平のまち(同)を見聞して、未来の我孫子駅前へタイムスリップして戻ってきた。 そこには以前と同じ写真プレートがあったが、その横のポールの上に本を開いた形状のものが載っていた。(写真下)近くに寄ってよく見ると、ボードには志賀直哉の名作「和解 (十三)」の1節が書かれていた(写真右上)。父とのわだかまりが解けた後の二人の会話である。 続いて父が我孫子に到着した時の一節「和解(十五)」も(写真右下)。文学散歩のグループは「和解」に出迎えられて、我孫子のまちに踏み出すと、今度は同じ志賀直哉の小説「暗夜行路」の開かれたページの前に若い女性たちがいた(イラスト)。 歩を進めると「雪の日」「十一月三日の午後の事」「流行感冒」「小僧の神様」などの作品の一説に誘われながら、志賀直哉邸跡や白樺文学館に到着した。更に白樺派の小径(我孫子のいろいろ八景)を行くと中勘助の「沼のほとり」や瀧井孝作の「無限抱擁」にも巡り合えた。三樹荘や武者小路邸跡への道すがらでも、柳宗悦の、武者小路実篤の著書から抜粋された一説が同じようにビジターの足を休ませていた。素材は豊富だ。QRコードも役に立っていた。
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