-24- 手賀沼新春ウォーク  1月4日(水)  杉原 紘輝(会員)
恒例の「新春手賀沼ウォーキング」が好天の下行われた。コースは昨年同様湖北駅南口を9:30に出発し、手賀沼ふれあいラインから手賀沼遊歩道、手賀沼公園へ進み我孫子駅に至る約8.2キロである。

参加者は12名(湖北駅男性7名女性4名、女性1名はふれあいラインで合流)。ふれあいラインからは、途中左手に富士山をうっすらと眺めることができ、最初の目的地「天照皇大神宮」に到着。約15分思い思いに参拝し再び遊歩道を進む。途中牧場の馬や山羊など、のどかな風景を観ることができた。

手賀沼公園を目指しゆっくり進む途中、鳥達の姿、遊歩道の並木等自然の景観を楽しみ、また珍しい早咲きの桜を撮影する人も多く見られた。

手賀大橋に到着し、若松の住宅地のそばを更に歩を進め、到着後は楽しい懇親会を中華店で賑やかに開いた。仲間達の昔話や体験、出身地にまつわる話や趣味など懇親のひと時を過ごした。

近頃よく思うことではあるが、会の活動や懇親の機会を通じ仲間との繋がりや絆の大切さを感じることが多く、今日も教えられたひと時であった。参加された皆さんに感謝をしたい。
三樹会講演会 開催「三樹荘に住んだ人々」      吉澤 淳一(会員)
三樹荘とその周辺を清掃するボランティアグループ「三樹会」が、10月31日(月)我孫子南近隣センター第1会議室にて、勉強会を実施した。
我孫子市教育委員会、文化・スポーツ課の今野澄玲さんを講師にお迎えし、明治・大正・昭和に亘って「三樹荘に住んだ人々」について、パワーポイントを使ってわかりやすく語っていただいた。参加者は三樹会を中心に、我孫子の景観を育てる会、旧村川別荘市民ガイドから31名。

三樹会は2005年の発足以来17年を経て、新しいメンバーが増えている。そこで自分たちの活動の場である三樹荘について、色々な角度から学び理解していこうと企画したもの。

あの時代の錚々たる人々が何故三樹荘に住んだのか、特に登山家で日本百名山の著者・深田久弥については謎で、まだまだ知りたいことがある。そして景観重要樹木が6本も生きている三樹荘について、学びながら活動を続けていきたい。
尚、開催にあたっては我孫子の景観を育てる会の協力を得た。
講演「三樹荘に住んだ人々」を聴いて      伊藤 善子(会員)
我孫子市教育委員会文化・スポーツ課 今野澄玲様の講演があり、お話を拝聴しました。

三樹荘とは、高台にあり景観も良く、住み易い所。三樹荘の由来は邸内に植えられた三本の椎の木から嘉納治五郎が「三樹荘」と号した。因みに、この三本の木には、叡智、財宝、長寿、の名が付いている。「三つ立てる椎の一つに月隠る」と俳人の水原秋櫻子が詠んでいる。 
 
明治45年、加藤直枝(かとうすえ:嘉納治五郎の姪)が当地に別荘を設ける。大正3年柳宗悦が妻兼子と住居を構える。大正5年バーナード・リーチが窯を設ける。大正9年柳夫妻、東京へ転出。昭和13年河村蜻山が居を構える。昭和29年河村蜻山が鎌倉へ転出。昭和32年村山正八が居を構える。

「柳宗悦」宗教哲学者、民藝運動の創始者、朝鮮民族美術館を開く。日本民藝館を建てる。72歳で没。妻「柳兼子」声楽家、夫の民藝運動を演奏会で支える。国立音楽大教授、92歳で没。「バーナード・リーチ」窯を焼失し我孫子を去る。手賀沼公園にリーチの碑があり、「私は東洋と西洋の融合を夢見続けてきた。はるか悠久の彼方から聖童の声を聞いた。それはいつの日か、いつの日か」。その碑に描かれた「巡礼」はリーチが描いた墨絵で、東西古今の美を巡りながら人類の合一と平和を祈るリーチ自身の姿を表すという。
「田中耕太郎」一時期三樹荘に居住。日本の法学者、法哲学者。大正6年東京帝国大学法科大学助教授。大正12年東京帝国大学教授。昭和21年文部大臣。昭和22年参議院議員に当選。昭和25年最高裁判所長 官に就任。昭和35年文化勲章受章。昭和49年3月83歳で死去。

「河村蜻山」明治23年京都粟田の窯元の家に生まれる。明治41年京都陶磁器試験所を出る。父の家業を継ぎ蜻山と号す。昭和13年我孫子に窯ごと移住。昭和29年深草窯を鎌倉に移す。昭和37年陶芸、帝展、文展、日展に出品して工芸界に尽した業績に対し日本芸術院恩賜賞受賞。昭和43年死去。77歳。

筆者は我孫子に住んで四十余年になります。いろいろと我孫子のことを知っているつもりでいましたが、今回講演を聞いたり調べたりして、知らなかった事が沢山あった事が分かり、我孫子の良さを痛感しました。ありがとうございました。

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