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- その2- ![]() 今野 澄玲(我孫子市教育委員会 文化・スポーツ課) |
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●武者小路実篤とは (1)武者小路実篤と我孫子 ●武者小路実篤は、明治43(1910)年25歳のときに雑誌『白樺』を創刊し、海外の美術や思想などを紹介し、最先端の文化を発信します。大正5年12月には我孫子へ転居。このころ我孫子にはすでに『白樺』の同人である柳宗悦、志賀直哉が住んでおり、柳邸にはイギリス人陶芸家のバーナード・リーチも窯を築いたことから、この地は白樺派の文人たちが集まる場所になりました。しかし、実篤は大正7年に「新しき村」を建設するために日向(宮崎県)へと旅立ちます。 ●実篤が我孫子に転居してきた理由ですが、このとき、実篤は当時不治の病といわれていた肺結核になったと思い込んでおり、空気の良い場所に転地しようと考えていました。ある日、志賀の家があった我孫子を訪れて、仲間たちが集っている我孫子に住む気になったようです。我孫子駅から西へ徒歩約20分、現在は住宅が立ち並ぶ船戸2丁目のこの土地は、もともと志賀が持っていたために決まりました。こうして彼らを中心に白樺派の文人たちが我孫子に集まることとなったのです。 (2)我孫子での生活 ●実篤が書いた『或る男』に、我孫子での生活について書いています。「我孫子生活はきまつてゐた。彼(註:実篤のこと)は朝飯前に彼の所謂朝飯前の仕事をすませて、朝飯を食ふと、来る人がないと柳から志賀の方へ出かけた。(中略)昼めしか、晩飯は、大概、柳か志賀の処で食つた。志賀や柳も時々来たが、彼が二度ゆけば一度来る位ゐのわりであつたらう。そして毎日逢つていた。そして三人の往来は歩く時もあつたが、舟でも行はれた。各々小さいやつと四五人のれる舟を一つづゝもつて居た」。この文章からも仲間の住まいをたびたび往来し、創作活動の日々を過ごしていたことがわかります。
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●旧武者小路実篤邸跡 (1)庭のようす ●実篤が転居した当時の様子を著書『或る男』の中で「前は手賀沼に面し、後ろは松林がつゞいてゐた。(中略)松林を通つて、急に沼が見え、眼界が広くなる処が彼(註:実篤のこと)の家をたてつゝあつた所で(後略)」と、振り返っています。当時、我孫子には赤松がたくさんありましたが、昭和40年代に虫害によりほぼなくなってしまいました。現在も松林が残っているのは、我孫子市高野山にある日立アカデミー我孫子キャンパスと国道6号線沿いにある電力中央研究所内です。日立アカデミーは通常非公開ですが、「我孫子の景観を育てる会」による秋の公開日にご覧いただけます。松林の先に手賀沼の湖畔を望む様子は、当時の面影を残しています。ぜひ、訪れてみてください。 (2)建物のようす ●家の方は、「彼の妻は新しい家をたてるのをよろこんで図を何枚も何枚も書いた。彼はそういう方にまるで頭が動かなかった。ただ妻のつくった図を金の方からみて、建坪をへらすことだけが彼の仕事だった」とあり、武者小路の妻が設計をしたことがわかります。当時の武者小路実篤邸がわかる資料は少なく、彼の著書『AとB』の扉絵に採用された写真が数少ない手がかりの一つです。
●現在の庭について ●武者小路実篤が新しき村の建設のために日向に移転したあと、大正8年には土地建物が売却されます。当時まだ我孫子に住んでいた志賀直哉が送った大正8年6月22日付の手紙には、根戸の家屋が売れたことがわかります。そして、現在は三協フロンテア株式会社グループが所有している土地建物となっています。 ●前述したとおり現在は松林がなくなり、新たに植樹もされているため、当時の面影はありませんが、邸内の庭から手賀沼を臨むことができ、文人たちが愛した手賀沼沿いの景観を見ることができる空間となっています。 |
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