![]() |
-その4- ![]() 今野 澄玲(我孫子市教育委員会 文化・スポーツ課) |
|||||||
●杉村楚人冠邸園とは (1)杉村楚人冠と我孫子 ●杉村楚人冠(本名・広太郎)は、明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリストです。日本で初めて新聞社に調査部や記事審査部を設け、新聞の縮刷版を企画、発行するなど、先進的な新聞人でした。楚人冠は手賀沼で行われていた鴨猟の取材のときに手賀沼の景観に惹かれ、明治45年、我孫子駅から東南へ徒歩10分の現地に別荘を構え、大正13年に起きた関東大震災で二人の子どもを失ったのを機に翌年一家で我孫子に転居しました。以後、我孫子ゴルフ倶楽部の建設を町長に進言したり、手賀沼の干拓に反対し景観保護活動に取り組んだりするなど、風光明媚な郊外の住宅地、観光地・我孫子の発展に尽力しました。 (2)我孫子での生活 ●楚人冠邸園はどのような意図で作られたものなのでしょうか。別荘をもった明治45年の「支出帳」を見てみると、「桜20、梅7、松108」などなど、たくさんの樹木を購入していることがわかります。その後も椿、椎、山茶花、木蓮、泰山木と、年々購入しています。なかでも杉、松、桧、桐は数千本、数百本と桁違いな数で植樹しています。杉に関しては根付いたようですが、松や桐は失敗したようです。また、梅はよく育ち、その名残が池付近に残されています。楚人冠はそれらの木を自ら切り、週末庭師を楽しんでいたことが、彼の随筆『白馬城』からもわかります。楚人冠が植えた木と現在残っている木を比べると、楚人冠は試行錯誤を繰り返しながらの植樹であったことがわかります。
●あわせて、邸園の重要な要素であるのが池です。楚人冠邸のなかには谷があり、水が豊富な地形になっています。最初に池を作ったのは大正4年。湧き水を利用して池を作り、鮒や鯉を放していました。池の水は豊かであったため、その後も池が作られました。そのなかで、現在も庭の中央に位置する池は楚人冠が「大池」と呼んでおり、大正11年に作られました。池と楚人冠が撮影されている写真が多くあることからも、楚人冠のお気に入りの場所であったといえるでしょう。また、それらの写真の中に芭蕉が映り込んでいるものがあります。池の横にあった芭蕉の木は歳月を経て移動していますが、茶室横の階段から降りると見ることができます。 ●また、邸園には木々だけでなく、生活に必要な浴室もありました。当時、浴室は火を扱うため、安全面から外に作られることが普通でした。楚人冠邸の浴室も茶室横の階段を下りたすぐ近くにありました。浴室の縁側で庭を見ながら涼んでいる楚人冠の写真もあります。現在、浴室はありませんが、大池の横に作られているコンクリート製の貯水池は浴室で利用する水を溜めておくためのものでした。 |
●庭の様子は関東大震災を機に別荘から定住場所となることで、変わってきます。我孫子での生活を書いた『湖畔吟』を見ると、新緑の間から椿が見え、ツツジや大木にからむ白藤、大池の周りには牡丹の花、他にも木蓮、山吹とさまざまな花が咲き乱れている様子がうかがえます。樹木の植樹が多かった別荘時代と比べ、趣意が変わってきたことがわかります。枝を切ることに慰められていた別荘時代から、花に癒されていた日常へと変化したのでしょうか。 ●特に注目されるのが椿です。邸園には11月ごろから翌4月ごろまで異なる開花の椿を取りそろえ、長く楽しめるようにしていました。随筆からも落ちた椿までも楽しんでいることがわかります。 (3)邸園の特徴 ●ご紹介したとおり、楚人冠邸の庭は楚人冠の思い描いた庭です。邸園づくりに関してはいわゆる「日本庭園」でなく、地形・土壌・気候に合う楚人冠が好んだ植物を好きなように植えていました。試行錯誤すら楽しんでいたようです。庭木の手入れは最小限に留め、庭に生える草花にもほとんど手を加えていませんでした。楚人冠は植物や樹木の美しさを表現する際、「野趣」という言葉を使っています。人間が事細かに手入れをするよりも、自然が作りだす姿が一番美しく、情趣が溢れていると考えていたようです。 ●現在の楚人冠邸は園路を設け、整備をしていますが、住宅街の中に突如あらわれる邸園を歩くと、楚人冠が愛した自然を感じることができます。
|
|||||||
![]() |
![]() |
![]() |