-11- 東我孫子 一里塚 (東我孫子・天王台地区)
             堀 茂幸(会員)
一里塚は街道の里程標として距離を示したり、木陰などを提供して、道ゆく旅人に安心と憩いをもたらす重要な施設でした。その意味で道路上の人工物である街路樹と似通った機能を持っていました。一里塚の土盛りした塚に植えられた木は榎と松が多かったそうです。これは大木である榎や松のしっかりした根で塚を保持しようとしたからだと考えられます。



江戸時代になると幕府によって江戸と地方を結ぶ主要道である「五街道」と、それに次ぐ「脇往還」が整備されました。「陸前浜街道(水戸街道)」は江戸と徳川御三家が治める水戸を結ぶ脇往還の一つで、五街道である奥州・日光街道の千住宿に始まり、松戸―小金―我孫子・・・などの宿場を通り水戸に至りました。我孫子市内では我孫子―布佐間の国道356号とほぼ重複するルートが取られていましたが、天保の頃、我孫子第一小学校北側三叉路から取手宿に向かうルートに変更され、それより以東の古いルートは「成田街道」と呼ばれるようになりました。
我孫子市内の一里塚は、台田―東我孫子―湖北―布佐の4ヶ所に設置されました。そのうち最も保存状態の良いものが東我孫子一里塚です。東我孫子一里塚は、かつては街道の両側に2基の塚がありましたが、現在は1基だけが保存されています。石碑には「徳川家康の築造に依る」と記されています。この塚の構造は直径12m・高さ2〜3mの円形です。この様に巨大な塚が、当時の状態に近い形で保存されている例は、千葉県内でも珍しいそうです。現在、植えられている樹木は、榎・松からシラカシとスギに替わっています。我孫子にはかつて広く松林が分布していたそうです。塚に登って歌川広重東海道五十三次に描かれた松の並木道と旅人の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 -38-  京都祇園の交番  大久保 慎吾(会員)
昨年の秋、両親の墓参と大学時代のゼミ仲間との会合を兼ねて1年振りに京都を訪れた。

秋の紅葉にはまだ早かったが、相変わらずの観光客の多さ。以前と比べて外国の観光客も中国・韓国中心から欧米をはじめ東南アジア・中近東など世界各国からから万遍無く来訪されているようだ。

両親の眠る東大谷本廟のある祇園八坂神社付近で見かけた「祇園交番所」は、京都のまちなみに合わせて祇園の場所に相応しい。「祇園祭りの山鉾の山車」を思わせるたたずまいの屋根と、シックな趣きのあるベージュの建物の外壁と木目の入口のドア。まさに京都の町の景観を意識した建物だった。
  高垣のある家   鈴木 洋子(会員) 
館山は房総半島の先端に位置することもあり、海風が内陸まで届きます。この写真は我が家の隣りの地区ですが、防風に槙(マキ、ホソバと言われている)の高垣を持つ家がたくさんあって、よく手入れされています。

我が家にも敷地をぐるりと囲む高垣があるのですが、不揃いなので写真は遠慮しました。我孫子では、新木に手賀沼からの風を防ぐ為の高垣がありますが、生活を守る景観の一つなのですね。

編 集 後 記
  新しい年の始まりです。当会は、恒例のおでかけ倶楽部1月4日の「新春ウオーク」からスタートしました。昨年の漢字は「金」でした。オリンピックの金メダルや大谷選手の値千金の50-50、政治の金や金目当ての闇バイト等。皆さんは、今年はどんな年になる事を願って「初詣」をされたでしょうか。
  新シリーズとして野口修さんの「我孫子景観基礎研究3」が始まりました。逗子の関基治さんからの投稿もあり、久し振りの8ページ建てで内容が盛り沢山です。今後も新会員の方や、景観に関する話題がありましたら、是非投稿をお待ちしております。
  団塊世代の私にとって、一年の過ぎるスピードが年々早くなり、同世代が集まると、会話は「健康と病気の話」ばかりです。
  会員の皆様も、より一層健康に留意され、会の活動を出来る範囲で出来ることを行っていきましょう!(大久保慎吾)

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