(P1からの続き) ところで、コッツウォルズの北の玄関口となるストラトフォード・アポン・エイヴォンは、文豪シェイクスピアの故郷であり、手賀沼の景観保護活動に取組んだ杉村楚人冠が、著書『大英游記』や『半球周游』で「レムの里」と呼んだロイヤル・レミントン・スパ滞在中に訪れた町だ。 このことに関しては、本誌第69号から第73号に連載した『我孫子景観基礎研究 その1:杉村楚人冠の"手賀沼ビジョン"に関する考察』に書いたので、そちらをご参照頂きたいが、楚人冠がイメージした「田園生活」などは、今回見たコッツウォルズの人々の生活振りが下敷きとなっているのだろうと思った。 ウィリアム・モリスから離れるつもりが戻って来てしまったが、結局、景観保護思想の"根"は一緒で、あとは場所が持つ文化的ポテンシャルを如何に保存し、活用するかではないかと考えた。同時に、遠くイギリスを回想しながら、ここでも我孫子に繋がる潮流を見つけたことに、手賀沼を中心とする我孫子景観史の奥深さを感じた。 2-2.再びロンドンへ/東京との景観比較 先日、東京駅前の丸ビルに行く機会があったので、35階まで登ってみた。ガラス張りの展望スペースより写真を撮ってみたが、唯一皇居周りが開けた感じで、それ以外は東京湾を覗いても、内陸側にカメラを向けてみても必ず高層ビルが入ってきて、何とも景観に抜けがないように感じた。(写真5)
「何と比べて?」と思い返すと、前稿で紹介したセント・ポール大聖堂の尖塔からロンドンを俯瞰した写真の見晴らしがあまりにも良かったので、東京の景観を窮屈に感じたのだと気付いた。 |
調べて見ると、景観を論じる者としては勉強不足なことだが、ロンドンには1991年以降、「ビュー・コリドー」(眺めの廊下)という建物の高さ制限をともなう景観規制があることを知った。これは"10の戦略的眺望"として作られた国の施策で、ハムステッド・ヒースやプリムローズ・ヒル、グリニッジ・パークなど、ロンドンの8つの高台からセント・ポール大聖堂を見通すライン上に大聖堂のドームを隠す建物や、輪郭を損なう建物を建てることを禁じている。10の眺望の残り2つは国会議事堂への見通しを規制するものである。
現在のセント・ポール大聖堂は、1666年のロンドン大火時に倒壊したものを国王チャールズ2世の勅命で35年かけて再建した建築物で、1710年に竣工した。設計は建築家クリストファー・レン。その後は、第一次、第二次世界大戦下で被害を被りながらも外観を残して立ち続けたことから、ロンドン市民にとって復興のシンボルともなった。(写真6)歴史的なランドマークだったことから1930年代には先んじて、シティ地区内の建築物が大聖堂の景観を損ねないよう、高さを制限する基準「セント・ポール・ハイト」が定められていた。 都心にある建築物を見通すためには、広範な領域に規制がかかるので、地権にうるさい国では"不公平だ"とか"都市としての発展を邪魔する考え方だ"などと言われそうだが、宗教や都市のアイコンとしての意味を除外しても、ランドマークを中心に都市を形成する方法は工学的だし、世界的大都市におけるこうした景観づくりの実践は、実に興味深いと感じた。(続く) |
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-その5- ![]() 今野 澄玲(我孫子市教育委員会 文化・スポーツ課) |
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●高野山桃山公園の景観について 1.我孫子遺産について ●我孫子遺産とは、令和2年度文化庁に認定を受けた『我孫子市文化財保存活用地域計画』(以下『地域計画』)の中でつくられた言葉です。『地域計画』はそれぞれの地域の特色を活かし、文化財における保存と活用についての計画をまとめたものです。 ●国の考える文化財とは、文化財保護法のもと、指定・登録されたものを「文化財」としています。それは県市も同じなので、指定・登録されていない歴史的な事象は法律上「文化財」とは言えません。しかし、私たちの生活の中では指定・登録されていないモノ・コトも、我孫子の歴史を語る上では大切な事象がたくさんあります。そこで、それらを意識的に守っていくために「我孫子遺産」という言葉をつくりました。 ●我孫子遺産は古文書や民具などのモノから、景色・方言・伝承など、見たり触れたりすることが難しいコトも該当します。簡単に言えば、「我孫子市民が自慢できる我孫子のモノ・コト」だと思います。 ●例えば、誰かが私に「我孫子市で一番好きな場所は?」と尋ねたとします。その時、私は「高野山桃山公園です」と答えます。この場所は我孫子遺産の一つだと考えています。
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2.高野山桃山公園とは ●高野山桃山公園はふれあいライン沿いにある公園で、手賀沼を一望できる高台と、緑を保存した斜面林、湧水を使って復活させたビオトープの3つのエリアで構成されています。その他、前原古墳の説明板が立っています。前原古墳は、平成21(2009)年に確認調査が行われ、一辺約15mの2基の方墳が確認されました。墳丘は削平されており、周溝だけが確認できました。周溝の中から出土した土器から3世紀後半に築造されたと考えられ、現在、我孫子市内で最も古い古墳です。高野山桃山公園の近くには県の指定文化財の水神山古墳もあります。水神山古墳は4世紀終わり頃に築造された全長約69mの前方後円墳で、我孫子市内で最大の古墳と考えられています。昭和40(1965)年東京大学により発掘調査が行われ、刀子(とうす)やガラス製の管玉(くだだま)・小玉が発掘されました。高野山地区・子之神地区・白山地区には一帯に古墳が広がっており、手賀沼に沿って造られたことがわかります。高い所は見晴らしが良いので、気持ちよく、古来より腰を落ち着けたい場所となっていたのかもしれません。(左下の写真) 3.高野山桃山公園の魅力 ●高野山桃山公園に着目する理由は二つあります。一つは、別荘地我孫子の様子が想像しやすいことです。現在、嘉納治五郎別荘跡地や旧村川別荘の斜面地から、どうにか手賀沼の水面を確認することができますが、残念ながら子之神地区以西の台地上から手賀沼を見ることは困難です。しかしながら、高野山桃山公園から見える手賀沼は、かつて文人達が見た手賀沼と同じような迫力が体験できる場所だと思います。あわせて公園のある高台付近は先ほどご紹介した古墳がたくさんありました。これらの古墳について、民藝運動の柳宗悦は『我孫子から(通信第二)』で、志賀直哉は自身の体験を書いた小説『十一月三日午後の事』で触れています。文人たちが我孫子の地形をどのように見ていたのか、文章から読み取った風景を思い起こせます。 ●二つ目は江戸時代の手賀沼干拓の様子を想像する材料になるかと考えています。江戸時代、井上家の管理していた相嶋新田や三河屋新田前は現在のような田園風景ではなく、田んぼの奥には手賀沼が広がり、手賀沼では鴨猟や漁業が営まれ、また、稲が取れない時期の田んぼには菜種油の原料となる菜の花が植えられ、黄色小花が埋め尽くしたと想像できます。 ●今は見えない風景も、心の目で見るヒントになる場所。また、古代より人々が集まり、現在も公園として親しまれている場所でもあります。そのことからも「元祖・我孫子自慢できる場所」それが高野山桃山公園かな。と、機会があるごとにその美しい景観を紹介しています。 |
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