-その6- 天神山の景観について
今野 澄玲(我孫子市教育委員会 文化・スポーツ課)
1.天神山について
我孫子市には「和紙公図」という資料があります。この資料は大正7年以降に製図したもので、もとは江戸時代から名主が持っていた村絵図が底本になっているものと考えられます。現在保存されている和紙公図は、「小字(こあざ)」ごとに地番図が書かれ、いくつかの小字を地区ごとにまとめています。小字とは村名を指す大字より小さい集落です。小字は今も残っていて、例えば、都市計画の中で残す自然環境として緑地がありますが、杉村楚人冠邸園は明田緑地、志賀直哉が住んでいた場所は雁明緑地とされていて、緑地の名称に小字名を使っています。しかしながら、小字名で「御伊勢山」「弁天山」「天神山」という名称はありません。それでは、どこからその名称が来たのでしょうか。

理由は我孫子市の特徴的な地形にあると考えます。我孫子市は北に利根川、南に手賀沼、その間が台地になっている ため、自然と坂が多い地形になっています。場所によっては、丘のような地形でした。その地形の特徴から、「山」と呼ばれていたようです。例えば、杉村楚人冠記念館に残されている昭和2 年の我孫子駅前図には、杉村楚人冠邸の場所は「御伊勢山」と書かれています。
  また、弁天山に住んでいた志賀直哉への手紙の宛先を見ると「我孫子町辨天山 志賀直哉様」と書いてあり、大らかな郵便制度だったことが伺えます。このことからも、地元の人の間では日常的に使用し、認識されていた地名があったことがわかります。あわせて、天神山の「天神」に関しては、民藝運動を興した柳宗悦の全集の月報に記載されている妻でアルト歌手であった兼子の聞き書きから邸内に天神様の祠があったことがわかっており、そこから「天神山」と呼ばれるようになったようです。

2.天神山と三樹荘
天神山には柳宗悦と兼子が住んでいました。この家は三樹荘と名付けられ、今も我孫子市民に愛されている土地となっています。名付け親は柔道の創始者の嘉納治五郎。彼は三樹荘の向かいに別荘を構えていました。三樹荘の意味は柳が住んでいた敷地内に大きな椎の木が 3 本あり、地元の人が「智・財・寿」の木として大切にしていたそうで、三樹はこの木を指しています。今も「三樹荘」と書かれた嘉納の書ありますが、号を見ると「帰一」と書かれています。嘉納は年代ごとに号を変えており、60 歳までは甲南、60 歳以降は進乎斎、70 歳代は帰一斎と名乗っていました。このことから「三樹荘」と書かれた年代は昭和 6 年以降と考えられます。そして、昭和 6 年以降三樹荘に住んだのは陶芸家河村蜻山になります。当時の楚人冠の日記を見ても「川村蜻山氏邸(川は原文ママ)」とあり、その地を「天神山」「三樹荘」と呼んでいなかったことがわかります。では、「天神山」を好んで使っていたのは誰だったでしょうか。それは、嘉納治五郎と考えられます。

天神山緑地より手賀沼を臨む嘉納治五郎像

嘉納治五郎の手紙を見ると、会議の会場を「天神山拙宅」としたり、高台から手賀沼を臨む絵葉書の印刷業務を行っていた楚人冠に「我孫子天神山から見る安美湖の眺望」(下の写真)と文字を入れて印刷して欲しいと依頼したりしています。

よく三樹荘=天神山と考えられがちですが、嘉納の記述を見ますと三樹荘+嘉納治五郎別荘跡地=天神山という図式になって、天神山はかなり大きな「山」であったことが想像できます。ちなみに、この絵葉書と絵葉書に関する書簡を令和/年6月29 日(日)まで、白樺文学館で展示していますので、ぜひ見に来てくださいね。

3.天神坂
天神坂は三樹荘と嘉納治五郎別荘跡地がある天神山の間を抜ける細い道であることから天神坂と呼ばれています。平成5年に現在の石畳の坂に改修されました。この整備からも市民に愛されている坂だということがわかります。また、令和4年には"ちば文化遺産"にも選定されています。

天神坂をご案内すると、周りの雰囲気から切り取られた様子に散策する人の気持ちがさっと変わって、坂が特別な景色に変わって見えているのをいつも感じて、不思議な、素敵な場所だなぁと思っています。
「我孫子天神山より安美湖の眺望」(村川家蔵)

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