(P1からの続き)
11-2.プロローグ:北欧で見た「民藝」
ここからは、何回かに分けて、我々が生活の中で目にする北欧デザインの潮流について書きたい。 北欧デザインといえば、日本でも身近な家具や照明、テキスタイル、食器などに定着し、普段から北欧のメーカーや、北欧風にデザインされた国産製品を手にする機会も多い。しかし、それらが日本で受け容れられた経緯や、日本との関係については、あまり知られていないし、筆者自身も初めて掘り下げてみる。紙幅の関係により本論をプロローグと位置づけ、この夏、スウェーデンのストックホルムを訪れた際、偶然、スウェーデン国立美術館で観た展覧会「Wilhelm K?ge & Sh?ji Hamada: Ceramics Across Borders(ヴィルヘルム・コーゲ&濱田庄司:国境を越えた陶磁器)」の感想から書き始める。 まず、スウェーデン国立美術館はストックホルム中心部に位置し、旧市街のガムラスタンからも徒歩圏内にある。1792年に創立され、現在の建物は1866年に開館した。収蔵物は王室のコレクションをベースに15世紀から現代に至るヨーロッパの美術品を多数展示している。 。 |
濱田庄司と共に作品が展示されたヴィルヘルム・コーゲは、スウェーデンを代表する陶磁器ブランドであるグスタフベリのアート・ディレクターを32年間務めた人物で、現代につながる「スウェーデン陶磁器の方向性を定めた」と言われる。また、その創作の裾野は、日用品としての陶磁器から高級志向のブランド品、さらには一点物の芸術作品まで広がりを見せる。 活動の中で一貫して目指したのは、「より美しい日用品」であり、この点で濱田庄司ら民藝が追求した「用の美(実用的な美)」と共鳴したとされる。 具体的な交流としては、濱田庄司が柳宗悦らと1929年と1952年にスウェーデンを訪れ、コーゲの案内でグスタフベリ陶製所を視察した。一方、コーゲは1956年に日本を訪れ、濱田の自邸や濱田窯がある栃木県益子町に約2週間滞在し、直接、作陶を経験したようだ。 あらためてヨーロッパにおける濱田庄司の認知度の高さを実感したが、濱田自身1920年から関東大震災の報を受けて24年に帰国するまで、バーナード・リーチと渡英し、イギリス南西部のセントアイヴスでリーチ工房の設立に関わっており、当時としては、異色の国際感覚を持った陶芸家だった。 現在も記念館や、濱田窯が残る益子町とセントアイヴスは、国際工芸交流事業でつながり、陶芸を通した人材の往き来があるようだ。 展示された二人の作品を見て、技法における影響関係を認識すると同時に、コーゲの表現の方が固い印象を受けた。思うに、コーゲにはアートディレクターとしてグスタフベリの職人誰もが再現できるデザインを求められる"産業デザイナー"の使命があったため、濱田のようなその瞬間限りの自由な線が引けなかったのではないか? 1889年に生まれたコーゲの理念の根底にあったのは、19世紀末にヨーロッパを席巻したアーツアンドクラフツ運動で、早い時期から日本の民藝運動にも興味を持ったようだ。加えて、我孫子と所縁がある柳宗悦やバーナード・リーチらと民藝運動を主導した濱田庄司の陶芸が現代のストックホルムで観られ、コーゲとの交流を確認できたことから、北欧デザインが、全く関係の無い場所で芽生えた独自の流行として突然、現代の日本で受け容れられたのではないと推察し、そのつながりについて次回、もう少し掘り下げてみたい。 (続く) ■もどる |
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