我孫子の景観を育てる会 タイトル 第33号 2009.9.19発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(10) 〜"湖北"考〜                              酒井 弘(会員)
「どちらにお住まいですか」と聞かれ、「湖北です」と応える私は相当にイイカゲンである。「アアそうですか」と頷く人も同様(ゴメンナサイ)。湖北と云う地名は存在しないからである。湖北とは第一義的には方角を指し、そしてその辺り一帯。或いは強いて云えばJR成田線湖北駅を中心としてその周辺。分かりやすいところでは、湖北台団地のどこか。いずれも湖北らしいが湖北ではない。

私はかねがね"湖北駅"と云う名前はどうして付けられたのか疑問に思っていた。我孫子・新木・布佐・木下・小林・安食・下総松崎・成田といかにも由緒あり気な沿線駅名。湖北と云う現代的なしゃれた響きをもつ駅名は、それだけにあまり個性が感じられない何か場違いと云おうかシックリこない。

我孫子には、先号(31号)で佐々木会員が記されたとおり、中峠、中里、日秀、都部、岡発戸など床しい地名が多い。私は、○○台、△△ガ丘、東西南北××、○号公園等の地名・呼称は近年の町名変更や再開発などで云わば便宜的に付けられた名前らしく、いかにもそらぞらしいものと思っている。勿論住んでいる人々の責任ではない。私の好みである。

『我孫子市史・近現代篇』によれば、「明治34年4月1日の我孫子―成田間の開通により新たに湖北・布佐の二つの駅が開設された」とある。明治34年当時には湖北町か湖北村が既に存在していたのではないか。何故なら駅名の多くは市町村名(ときには地名)を反映している場合が多いから。そうであるなら、町村史(誌)の類があるのではないか。

我孫子図書館には、かなり古びて濃紺の厚地の表紙に、金文字で『湖北村誌』と記された我が村誌があった。

大正8年8月編纂(復刻版)の村誌には、「湖北村は明治22年中峠、中里、古戸、日秀、新木の本5カ村を合併し、設立せられたる連合新村にして、千葉県下下総国東葛飾郡の東部、元南相馬郡の一部にして中相馬郡と唱へられし地域にあり」とある。

さらに又、当時町村制の施行により、「明治22年町村合併の時に当り、岡発戸・都部の両村は我孫子町に加入して、遂に歴史的関係を絶に至りしより。中峠中里古戸日秀新木の元5カ村合併して新村を組織し湖北村と命名せり、蓋し手賀湖の北に位するを以て此の称ある」と。岡発戸・都部村の中相馬郡からの離脱をかなりキツイ表現で記しつつ、村名はかなり安易に命名しているように感じられるが、どうか。
しかしどうあれ"湖北村の湖北駅"である。駅名の疑問は解消した。

まだ私にはこだわりがある。手賀沼の北にあるから湖北だなんて、あまりにも行政のご都合主義的な命名だったのではないか。

前述の村誌には、「北の利根川を襟帯し、彼の紫の筑波山は眼前に展開して呼べば即ち応えんと欲す。南は印旛郡手賀沼に臨みて、遙かに本郡手賀村と相対す。而して西南遠く雲際に聳ゆる芙蓉の霊峰は、気澄み風静かなるの日、煙波渺?の間にその影を浸して清楚言うべからざるものあり」とある。澄んだ湖面に富士山を映す手賀沼の風景を想像すると、全く同感の極みではあるが、やはりスンナリ納得出来ない。

ここは再度『我孫子市史・近現代篇』を読み進めるより他はない。それによると、明治22年1月24日、関係町村からは新村名を『中相馬村』にしたいとの上申がなされていたのである。手賀沼と利根川に挟まれた細長い地域を中相馬郡と称していたことがその理由である。しかしこのような広域的な呼称を新町村名にするにあたり、郡役所から近隣の町村に照会がなされたようであるが、最終的に湖北村になった、とのことである。どのような軋轢があったものか今は知ることは困難となったが、村民の無念さも大いなるものがあったのではなかろうか。やはり行政による命名だったナー、と不本意ながら得心し私の湖北追究考は終わる。

昭和30年4月29日、我孫子町、湖北村、布佐町が合併し、我孫子町(昭和45年7月1日我孫子市)、となった。ここに湖北は消滅する。
   昭和42年、日本住宅公団による"湖北台団地"の建設が始まった。

さて、近年の山を削り林野を破壊しての土地開発は、古い地名と共に懐かしい土地への郷愁をも奪っている。景観は地名とともにある、との思いが一層強くなった。
 将来、我孫子市が他の市町村と合併するようなことになれば、どんな名前になるのだろうか。"湖北"を考えながらふと思うのである。
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