我孫子の景観を育てる会 タイトル 第34号 2009.11.21発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(11) 「高台から望む手賀沼と田園風景」         塚本 泰弘(三樹会会員)
我孫子は手賀沼ぬきでは語れない、と思っています。水田が少なかった昔は、沿岸の住民は主に漁で生計を立て、その後の新田開発による農業重点へと、度重なる洪水と闘いながらも、農漁業用水、生活用水として手賀沼は無くてはならない存在でした。そして長年の治水事業や戦後の競艇場等の問題、最近では沼の汚染の改善等で、先人達が必死に手賀沼を守ってきたからです。

昔の沿岸の住民は手賀沼の水を大切に使っていたと思われますが、手賀沼の風景は日常の当たり前の景色なので、特に大切にするという意識も無く、他の地域の人々に景色をPRすることも無かったと思います。

時代を経て、徐々に交通の便が良くなり、「我孫子の街道の近くに景勝地がある」と旅人によって伝えられたのでしょう。そして大正の時代には白樺派の文人達によって、別荘地として有名になりました。

昭和30年頃までは、今の我孫子市の西地区にあたる船戸、白山、寿、高野山の一部や、以東の限られた地域から、冬の南西方向の斜面林の彼方には富士山が見え、手賀沼や田園を含めたその景色は、絶景と評価されていたのではないでしょうか。

しかし今日では、大正の文人達が住んでいた別荘地跡の高台からの眺めは、近くには干拓地に建った住宅群や広告看板等、また遠くの冬場の富士山も高圧鉄塔や電線、建物等の障害物によって遮られ、とても美しいと言える状態ではありません。

唯、手賀大橋から東側は干拓された新田が田園のままで広がっていて、特に沼の南側にあたる現在の柏市鷲野谷新田以東の新田地帯は建造物が少なく、その奥には斜面林があって、美しい景色が残っています。

市内の高野山にある日立総合経営研修所の庭園の高台から見える手賀沼と田園の風景は、手賀大橋から東側の景色で、富士山は見えませんが、素晴らしいと感じている方が非常に多いと聞いています。

この風景こそが白樺派の文人達が好んだ、昔の面影が残っている景色ではないでしょうか。
   このような高台から眺める建造物の少ない手賀沼と田園の風景が見られる可能性がある場所は、現在の鳥の博物館の東側にある「香取神社」から「水神山古墳」、そして「日立総合経営研修所」に至っていますが、雑木等で殆ど見ることができない状態です。
日立総合経営研修所の高台から見るような素晴らしい風景を、いつでも見られる場所がないか探していましたところ、工事中の隣接地が高台のある公園として来春にもオープンすると聞き、四季を通しての手賀沼と田園の風景を非常に楽しみにしているところです。

手賀沼と田園の素晴らしい風景を、日常的に高台から眺めることが出来るようになれば、この公園が市の新しい観光名所になるのではないかと期待しています。但し、対岸にあたる手賀沼南東部の柏市の新田地帯が、これからも田園として保護されることが前提になることは言うまでも有りません。緊急の広域景観条例等が必要です。

我孫子は、古くは手賀沼やその周辺から、天皇や伊勢神宮などへの献上食物を産む大切な地域「御厨」であり、また江戸時代には西地区は「我孫子宿」でもありました。

現在ある「水の館」や「鳥の博物館」では、歴史的なものはあまり説明されていませんが、「御厨」の産物の一部を紹介している館でもありますので、手賀沼に関する歴史が、もう少し詳しく判ればと思います。

また「我孫子宿」の面影は殆ど無くなってしまいましたが、旧街道沿いには歴史を感じさせる旧家や一里塚等もあります。しかし現在の我孫子の地図からは旧街道の名前が消えていますので、新住民や我孫子を訪ねて下さる人々には判り難いのではないでしょうか。市民や旅人に新旧の名所等の繋がりを詳しく説明し、納得して戴くことだと思います。

「我孫子らしさ」は我孫子の昔の面影が残っている風景が良いのではないかと考えます。但し、斜面林やハケの道は、利根川下流沿いに何ヶ所か見受けられますので、我孫子の特徴的な地形とは言えないのではないでしょうか。又、高野山の高台から望む手賀沼と田園の風景が、「我孫子らしさ」のある風景だとは、現時点では断言できないと思っています。
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