我孫子ってこんなに素敵なところ!         蒲原 隆子(会員) 
前回に引き続き、大正5年2月14日、15日、16日の國民新聞記事を紹介します。

2月14日(第8619号)の見出しはこうです。「住宅地としての我孫子 手賀沼を南に抱いた高台 東京から一時間で行ける」

当時我孫子上野間は常磐線で1時間15分でした。そして、我孫子の中心地は駅から徒歩15分の子ノ神付近で、そのあたりには、既に、島田久兵衛、内山作次郎、志賀直哉、杉村楚人冠、嘉納治五郎、柳宗悦、宮尾舜治、諏訪親良などが別荘・住宅を構えていました。いずれも南に蘆・荻の影を宿す清澄な手賀沼を抱き、暖かい太陽の恩恵をいっぱいに受け得る場所です。

更に東は高野山、西は白山、根戸あたりにも沼に面した住宅好適地が広大に残っていました。多くは松林が入り混じった丘陵地で住宅地としての開墾は容易とのことでした。

地価は一帯に非常に安かったようです。ちなみに最初に島田氏が別荘地を購入したとき(明治末)、1反歩(300坪)60余円での取引でした。

旧地主は東京から土地を求めて来るものをおおいに歓迎し、かつ町長以下の有志家も、國民新聞の投票で3位に選ばれたことに刺激され、土地開発の目的のもと新たに住宅地を造ることに積極的でした。

15日(第8620号)の見出しは「手賀沼の風趣 新住宅地としての我孫子」です。

手賀沼北岸の一帯は、背後の松林と丘陵に北風を防がれ、南の陽をいっぱいに受け、冬は温暖、夏は涼しいという好条件にありました。沼の形と風趣は、自分が立つ位置により悉く異なり、そのどれもが絶佳です。楚人冠は高野山からの眺望が最も広く最も佳であると言ったそうです。

子の神社の高台から沼を望めば、西に景色が広がって、晴れた日は真正面にほとんど裾までの富士が現れ、雪を戴く富嶽の勇姿が沼に映ったということです。これを手賀の倒さ富士と称し、沼の誇りとしていました。倒さ富士は高野山でも白山でも眺められたそうです。
白山のあたりには古墳がいたるところにあります。また、白山には「白山八景」なるものがあります。富士の白雪、筑波の晴嵐、白山の秋月、鵞湖の帰帆、大井の晩鐘、城山の春色、谷田の落雁、五條谷の赤壁。それぞれ一幅の絵が浮かんできそうな景観です。一帯の地味は果樹の栽培にすこぶる好適ということです。

16日(第8621号)の見出しは「沼畔の新住宅地 魚は旨し水は佳し 夥しいオゾンが健康を助ける」です。

我孫子駅を降りて街道までは、当時で5,60年から100年近くになる古い桜の並木でした。この老桜がいっぱいに霞のような花をつける頃は、我孫子も春爛漫で、皆気持ちよくそぞろ歩きをしたものです。

町の人たちがまだ一般に純朴で悪ずれのしたところがないのも、住み心地をよくしている要因でした。

当時町の面積は1200余町歩(内田畑500余町歩)、戸数750、人口4,460人です。

手賀沼は東西7,280間、南北1,500間、509万4,000坪の大きさです。コイ・ウナギ・ナマズ・フナ・ドジョウなどの漁獲高は年々増え、コイの養殖もしていました。漁獲の多くは東京に輸送され東京人の珍味に供されていました。魚だけでなく、野菜も付近の農家から毎日新しいものが町に出され、日用品は非常に充実していました。

住宅地としての一大条件は飲料水がよいことにあります。沼の北岸の住宅地でも、利根川に近い城山方面でも、ちょっと井戸を掘れば清らかな飲料水が噴出しました。かように一帯の地下水が豊富なため、これが手賀沼に注ぎ、沼の水は常に極めて激しい新陳代謝を遂げて清澄さを保っていました。

そして沼にはオゾンが立ち上っていました。オゾンは空気中に分解して酸素になります。酸素の濃密な土地が健康に適することは、誰もが指摘するところです(オゾンに関しては、現在その濃度により害があるとも言われています。が、大気中の話なので当然充満することなくすぐに分解されるため、人体にどうこうという問題ではなかったものと思います)。 


( )内筆者註
次回は残りの大正5年2月17、18日分をまとめてみたいと思います。

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