我孫子の景観を育てる会 タイトル 第35号 2010.1.16発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
明けましておめでとうございます
吉澤 淳一(会長)
  年頭に当たり、一言ご挨拶を申し上げます。

  昨年は、当会にとって幾つかの特筆すべき出来事がありました。市民観桜会や秋の庭園公開において、ご来場者数の新記録を数えたこと、朝日新聞、千葉県民だよりをはじめ、多くのメディアに当会の活動が大きく取り扱われたこと、本紙の発行回数を年4回から6回に変えたことなどですが、何よりも画期的なことは、一年間で20人もの新しい会員をお迎えし、会員数が60人を超えたことでした。皆様の誠実で熱心な活動が、このような実績に結び付いたものと感謝しております。
  本年も、景観散歩や三樹会など、各分科会の活動も益々充実していくことと思います。フィールド活動における安全管理に、積極的に取り組んでまいりましょう。
  我孫子市制40周年の今年、6月には会設立10周年を迎えます。その記念事業の一つに、楚人冠プロジェクトがあります。昭和の初期、手賀沼を干拓の危機から救った、杉村楚人冠達の偉業にスポットを当てて、未来に残す手賀沼の姿を模索しようというものです。
  本年も「出来る人が、出来る事を、出来る時に」をモットーにして、より良いコミュニケーションを築き上げていきましょう。
シリーズ「我孫子らしさ」(12) 「私の我孫子」                           梅津 一晴(会員)
私の我孫子イメージは、我が家の住居周辺に手賀沼が広々と広がっていることですね。それがあって私たち家族の生活は常に"せせこましさ"から解放されてきました。水鳥が浮かび、魚釣りを楽しむ人のいる風景は、東京周辺ではあまり探せないのではないでしょうか。

我孫子駅前の都市開発には10年近く、とにかく長くかかりました。その割にしては北の鎌倉と言える駅前景観は無く、どこにでもある平凡な駅前で残念です。当時は、どこの市町村庁舎も中央官庁並に成りましたが、わが町我孫子は"見栄"を張りませんでした。これは称賛に値することです。

我孫子の細長い台地を東西にのびる道路はおそらく古代からあったでしょう。その一本道を横切ると手賀沼や利根川の昔は水辺でした。隣町に行くには川を渡らなければ行けない孤立し独立した土地柄でありました。しかし、この細長い台地には、古来営々と築づいた史蹟と、埋没した遺蹟の文化があります。そんな歴史ある台地の上で私たちは生活しているのです。

そう思うと豊かな空想がうまれます。我孫子は、知れば知るほど古い歴史の中に生き抜いてきた土地です。

我孫子半島は関東平野の一隅で、地質時代でも最も新しい第四紀の末期に誕生した豊かな台地です。旧石器、縄文、弥生、古墳、相馬御厨、鎌倉以後の長い戦乱期を経て、江戸時代、明治、現代と遷り変わりました。しかし、豊かな風土は変わりませんでした。そして、鳥が、魚が少なくなった、湖水が氾濫した、汚くなったと天に向かって騒ぎ立てて来ました。この心配事は"いにしえ"から続いた豊かな自然を思う「心」だったのでしょうか。

古利根沼はかつて大手不動産会社に買い占められましたが、勇気ある人たちが立ち上がり乱開発を阻止しました。その後荒れ果てた中峠城址の手入れをして公園化しました。
古利根沼
古利根沼
手賀沼はバブル期に汚染し、公園はごみが散乱しました。ここでも市民は一人、二人と清掃に立ち上がりました。手賀沼を訪ねる人たちも清掃する人たちを見て協力し、あるいは参加する人が多くなりました。

このように、景観・環境は市民が造り上げるものであって、それには時間がかかりますが、地味で着実なものです。市が行う都市づくりも市民の協力を活用して時間をかけて行っているようです。

そんな素晴らしい環境の中で私たちは生活しているのです。そう思うと平穏を感じ豊かな空想が生まれます。

我孫子は、近代の平和時に柳田國男、岡田武松を育て、嘉納治五郎、杉村楚人冠、白樺派や芸術家面々の夢を走らせました。日立第二代社長倉田主税は、我孫子の地を念願の"研鑚の地"に選びました。我孫子には「知」を生み出す大地があるのではと思うものです。
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