新木駅から湖北駅までの「鎌倉道」を散策して      歴史部会 瀬戸勝・梅津一晴

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この散策距離は約4kmです。のんびり歩いて約3時間かかります。途中は土の坂道、木立の中の小道があります。

なお、本文中の(1)、(2)、〜はガイドマップに記載の位置○数字〜です。※ブラウザにより丸数字は文字化けしますので、Web上ではカッコ数字で表現します。

「鎌倉道」は、■湖北座会の人たちによって明らかにされた、公道としての鎌倉街道とは異なる、鎌倉武士の隠れ路です。遊歩道として現在歩ける道はその途中部分で、明らかにされた「新木の香取神社」と「中里市民の森」の間で、鎌倉道全体の20%の道のりです。

新木駅北口を出て、356号線の成田街道を湖北に向かって歩き、新木の椎の木防風林(1・2)((2)、(3))を左手に見ながら、途中の葺不合神社に立ち寄った後、駅からの距離750m付近を左折し、JR踏切を渡って出発点になる香取神社に向かうと良い。

新木駅の北側には、椎の木大樹林の防風林が、東西に茂っている。最も古い木は、幹回り3.9mもある。高田三郎さんによると、明和年間に植えられたもので、2百年以上経っているという。この防風林の西端には、楡と椋の大樹がある。駅を出て間もなく、左手には田村利幸宅氏神様の御神木(1)が、見事な枝振りを見せる。

さらに西方100mにも、延長120mの椎木の防風林(8)が連なる。西端の椎の木は御神木で、幹周り3m余りあるそうです。今沖レンタカーさん宅のすばらしい防風樹林は、356線歩道から眺められます。

「葺不合神社」(4)は、「うがや茸きあえづの尊」が祭神で、神話の山幸彦の神と、海神の娘豊玉媛との間に生まれた神です。いかにも神が鎮座する所と思われる大樹の森の中にあり、神話彫刻は見事である。神社の裏山は、新木字五郎地で新木城(5)があったとされる。相馬氏の臣荒木三河守胤重が居城した、小さな谷津の奥に位置している。立地条件は、ほかの城と比べて現在の価値観からは重要性は低かったと思われます。現在は畑地となっています。

「香取神社」(6)は、鎌倉道の出入り口のモニュメント(目印)になっている。踏切を渡ってから神社までの道は、高い生垣に囲まれた農家、椎の木の大樹、大切な自然景観が温存されている環境です。

「香取の井戸」(7)は、香取神社を路沿いに西に進み、踏切手前を左折します。下り坂になりますが、うぐいす、きじなど四季折々に小烏がさえずり、木立に囲まれたお宅を左に見ていると、鎌倉の世にタイムスリップした気分にさせられます。そこを過ぎ、鎌倉道・新木常敷堤の東側谷津沿いの道を50mほど下ると、民家の脇に香取神社の井戸であった、3間余りの堀井戸の池があり、周辺に椿が数本植えてある。幹周りは約1mである。今は半分埋没した窪地になっていて、湧水は見えない。

「将門神社」(8);新木常敷堤を西に斜面林の坂を登ると、キャベツ,里芋、ほうれん草など等、斜面林に囲まれた平和な農村風景が目に入ります。この畑地を行くと舗装道路と交差します。この舗装道路を手質沼側に折れ左折、坂道を下ると将門の井戸、右折すると千賀沼を眼下に見下ろす丘陵に、将門神社があります。隣接して将門公園緑地がある。鎌倉道は斜面林に覆われた畑の中の、平和でのどかな農道として生きている。

「将門の井戸」(9)は、将門神社に相対する位置にある。承平二年将門が開き、軍用に供したと伝えられている。中相馬7村の村毎の1井戸のひとつ、「石井戸」とも言う。

「諏訪神社」(10):ここは終点の中里市民の森を過ぎて、間もなく右手に小さな神社境内も森が見られます。この諏訪神社境内の樹林はマサキ(正木)、クス(樟)、モッコク(木こく)、シラカシ(白樫)、ヤブツバキ(薮椿)、ツガ(栂)、スダジイ(椎)など、皆名札がついていて楽しい。
◆「鎌倉街道」、「鎌倉道」について
治承4年(1180)、源頼朝は鎌倉に本拠を置き、中央集権のため路づくりに着手している。

国史大辞典によると、「鎌倉街道」には太平記に見る上ノ道(武蔵路)、中ノ道、下ノ道がある。下ノ道は下総,上総に通じていたとも述べられている。鎌倉街道の名称は、江戸時代に「鎌倉街道」、「鎌倉海道」と呼ばれたが、それ以前は「吾妻鏡」など言う「鎌倉往還」が、古く正しい呼び名と思われる。

元弘3年(1333)、義貞鎌倉攻めの援軍として、千葉貞胤軍が南下した進路であり、鎌倉幕府開設以来、各地から鎌倉に向かった古道を称した。鎌倉街道は、地頭が献納その他で鎌倉を往復するためにも使われた。とあります。

「利根川・手質沼と湖北」によれば、湖北を通る鎌倉道は康平年間(1058〜1064)八幡太郎義家が、奥州征伐の折通過した旧道である。

湖北座会による、湖北手賀沼側を這う「鎌倉道」は、井戸に近い所、八幡宮、諏訪、氷川,熊野神社,禅宗、日蓮宗などの社寺の近くを通り、隠密行動のできるように工夫されていると言われています。従って、官道である鎌倉街道とは区別して用いることが順当と考えます。

この鎌倉道の新木の先について森田洋平、今林松子らは、「新木から布佐台へ向かう鎌倉道は、鎌倉坂(11)から(布佐気象送信所内の道を通り)竜崖城(12)付近を巡って、東流前の(布川を通り)古利根を渡ったようだと推測しています。

鎌倉道の西端の、岡発戸の先の行方は明らかにされていませんが、(1)手質沼対岸沼市町岩井から柳戸にかけて将門神社、熊野神社、八幡神社がある。

(2)大井は将門と繋がりが深い。

◎増尾は、鎌倉幕府の有力な武士団である、相馬一族の地として発展した。そして最近義経の家来増尾十郎という名が謡曲や、古い書物に出ている。増尾妙見社地から200mはなれた谷津国に「馬洗井戸」と言われる所がある。古くは増尾幸谷城跡があり、増尾城より古く鎌倉時代豪族の居館跡である。

このような事を考慮すると、鎌倉道の西端の岡発戸の先は岩井、大井を経て増尾に向かったと推論出来るのではないでしょうか。そして、この「鎌倉道」は、官道に近接並行した隠密の「道」であったのではないでしょうか。これからもこのことを立証できるような「間き込み調査」が必要です。

この鎌倉街道も、室町時代に入ると将軍の統率力は衰退し、駅制は事実上消滅し、各地の豪族は思うがまま関所を設けて、関銭を徴収するようになりました。

織田信長はそのような諸関を廃止しましたが、応仁の乱後の官道による交通路は、退廃して行きました。秀吉の時代に入って、川渡しに便が図られ、多くの橋が架けられました。

(梅津一晴)

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