第11号 2004.6.30発行
【叙景】 杉村楚人冠の見た我孫子の景観

大正12年、東京の大森から我孫子に居を移した楚人冠は、それ以前にも度々此の地を訪れている。楚人冠は、明治末期から大正初期にかけての、我孫子の景観をどの様に捉えていたのか、それを随筆「白馬城放語」に見ることができる。

一 
何でも十一月末の曇つた寒い日であつた。招かれて一晩泊りに手賀沼尻へ鴨の網猟見物に出かけたことがある。其の折往復ともに汽車の窓から手賀沼湖畔の景色が如何にも面白う覚えて、湖北停車場のあたりの小さな丘陵があちこちに起伏した所や、折からの黄葉紅葉が常葉まじりにとりどり林を色どつた様が、殊に、平生平板な武蔵野ばかり見つけた僕の興をひいた。こんな處に物しづかな住まいを構えて見たらばとも思つた。
 斯く思ふには其のいはれがある。

 二
 居を大森に定めてより此に十餘年、其の間にやつと借家住居を脱して、一應の家主とはなり得たが、其の家を建てた地面はまだ自分の物でない。それが何だか人の膝の上へでも腰をかけたやうで、一向おちついた氣がしなかったのである。

 (この後、「斯く思ふには其のいはれが」が、延々と書かれているがここでは要約する。かっては西に富士を遠望し、南は松原越しの海に臨む静かな田園地帯大森も、東京の郊外都市としての開発が進み、気がついたら近所に続々と家が建ち、見晴らしが悪くなり、火の用心も悪くなる。そしていつの間にか地代が暴騰していて、土地を買っておかなかったことを悔やむ。(数十年後の我孫子も同じ運命を辿るのだが)斯くして楚人冠は、地主の度重なる地代値上げ交渉に疲れ果て、大森を見限るのである。以下本文に戻る)

 それやこれやで、今日までは大森を我が永住の地と思つてゐた僕も、此の事あつて以来、急にいやになつた。五十坪でも百坪でもよいから、自分の所有する地所の上に、自分の建てた家に住みたいと、僕は思つた。

 丈夫四十、もうそんな家が出來てもよい頃である。痩せても枯れても、僕は武士の家の出だ。もとは藩主から拝領した家も屋敷もちゃんとしてあったが、父が亡くなつた時、こんなだゝ廣いものに用はないとて、捨値にこれを賣り拂つた。而して其の金は親類の誰彼に借りられて、到頭返つて來ない。これを春秋の筆法で行けば、親類の誰彼が僕の家と屋敷とを奪ひ去つたわけである。今でも故郷に歸つて、昔の家の近邊を歩くと、血のわく心地がする。僕は恨骨髄に徹して、是非とも僕が一生の間に、たとひ場所が違い大小を異にすとも、これを囘複したいと思はぬことはなかった。

 遠くは親類の者に家屋敷を奪はれた腹立しさと、近くは大森で借地してゐる身の心もとなさとがこんがらかつて、此の湖岸の丘陵起伏した湖北の景色が、殊に僕の注意をひいたのであつた。丁度僕と同じく大森に住居する本町の島久商店の主人島田久兵衛さんは、湖北の一つ手前の我孫子に大分地所を持つてゐると聞いたので、早速これへ相談して見た。島田君は七八年前廻国の六部から手賀沼の風景を聞き込んで、此處に地所を買い入れて別荘を構えている。僕の相談を受けて、湖北も湖北だが、我孫子の方が景色もよし、汽車の便利も遙かによいから、いつそ我孫子にせぬかとのことであつた。若し氣が、あるなら一所に出掛けて案内してもよろしいとまで、言って呉れた。

 暮れかゝる四十四年の末の某の日、いよいよ出掛けた。成程、我孫子なら湖北より近くもあるし、成田線と常磐線との分岐點だけあつて、汽車の數も大分多い。導かれて湖水の西の端に近い根戸新田のあたりから、通稱六之丞の森と稱する湖水の岸の松林を通つて、お伊勢山、観音山、辨天山を左に見て、子の神なる島田君の別荘に着いた。帯のやうに流るゝ
手賀の湖、對岸に糢糊たる松林や杉の森、風にそよぐ岸の枯蘆、琴の音に通ふ松風の音、何處を見ても全くよい。それに土地の値段も嘘のように安い。誠に僕には格好の地と思った。但し何処もよい彼処もよいで、これと一つ思ひ定むべき所がないには困つた。島田君の別荘や嘉納治五郎先生の買はれた處などは、如何にも勝れてよいが、其の他は何処もあまり變らぬ。僕は大に迷つた。

 別荘で辨當を使つて後、今度は湖水の見えぬ鐵道線路の北の方へ出た。丁度停車場の東北三四丁の處に、通稱五郎左衛門の城跡といふのがあると聞いたからである。行って見ると、方二丁歩許りの小さなものだが、みつしりと一面に松が生えて、大手搦め手めの門の跡もある。本丸の跡らしい平地もあれば、濠のやうにがツくと落ち込んだ小径もある。高低起伏自らなる趣があつて、其の上北の端に出れば、利根川を往來する帆影が數へられ、遥かに筑波の峯を天の一角に見る。おまけに停車場とも頗る近い。これあるかなと、僕は思つた。
 北條と里見とが喧嘩してゐた頃は、この辺にも小さな群雄が割拠して、此の城なども我孫子五郎左衛門何がしといふ山賊の親方みたいな城主が、いい心持に納まってゐた所である。此の城跡をそつくり手に入れて、見苦しからぬ邸宅を一つ構えたら、小さけれども僕も一城の主といふわけになる。いよいよ以てこれあるかなと、僕は思つた。それにしても五郎左衛門の城跡では餘り氣が利かぬ。一には爐を圍んで寒夜濁酒の満を引かうといふにふさはしく、一には白馬馬に非ずなんどとひねつて見たがる。僕の平生にも似つかはしからうとて、手にも入れぬ前から、これを『白馬城』と名をつけた。之をフランス語に訳して、西洋風の状紙の肩へ、シャトー・ヅ・シュワ"ル・ブランなどゝ威嚇するのも一寸おつだらうと思つた。―― 斷つておくが、僕の頭の禿げら了らぬ内に、諸人能く見て置いて呉れ、僕の旋毛はちと曲がつてゐるのである。

さしも一時は心迷つた僕も、いよいよ本領は白馬城と定めて、之が買入方を島田君に頼んだ。尚島田君の紹介で、當地四百年來の舊家飯泉家の主人賢二君といふのに會つて、これにも頼んだ。件の城跡の大部分は飯泉家の所有だから、萬事都合がよからうとのことであった。

僕は寢ても覺めても、白馬城の事ばかりが氣になって、一日千秋の思いで吉左右を待ってゐた。命までもと思ひこんだ女に結婚を申し込んで、其の返事を待ち詫びてゐるのがこんなだらうかと思はれた。所が世間に能くあることだが、思ひに思つた女は縁なうして一所になれず、突然思ひもかけぬ女が、自分の家内になるやうなもので、白馬城の問題の定まらぬ内に、別に又一つ候補地が現はれた。或る日飯泉君が來て呉れて、城跡の方は折角苦心中だが、それ迄に格安の賣地があるから買はぬかとの相談であつた。廣さは一反十歩ばかりしかないが、停車場から四五丁の距離で、湖水が見えて、見はらしも決して惡くはないといふ。聞けば値段も成程安い。兎に角買ふことにした。一目も見ずに、全部飯泉君を信任して買ふことにしたのである。飯泉君とは此の時僅に二囘目の會見であつたが、二囘目で斯く全部を任せる位に、僕とはいつしか肝膽相照してゐた。

 其の後實地に行つて見ると、お伊勢山と、觀音山との間の痩せた麥畑で、松が二本あつて筆數は三つで、三筆が三筆とも高さの違つた凸凹だらけの小さな土地であつた。聊か失望はしたが、何分値が價であるし、見晴しが思つたよりも宣いのに、多少滿足する所もあつた。

 どうせ本領は白馬城の方と思ひながらも、慰み半分に取り敢へず人夫を百人ほどかけて、地ならしをやつてみた。境目や勾配が平らに延びたせいか、急に廣くなつて、見たところ四百坪以上になつた。これへ姫小松の二十年位なのを百三四十本植ゑて見た。見かはすやうによくなつた。澁々貰った花嫁が、一夕ちゃんとおつくりをして膳の前に座ったら、存外な美しい女になつて、急に惚れぼれとしたやうな趣があつた。

 一方思をかけた白馬城の地所は、其の後僅に一小部分を買収し得ただけで、話は一向進まぬ。いつその事、此の嫁の方で我慢するかといふ氣になつた。そこで初めは進まなかつた此のお伊勢山の前の地所を、改めてわが本領と定めて、やけのやン八で、今度はこれを「白馬城」とつけた。嫁に貰い損ねた女にまだ未練があつて、せめてもの心遺りに、其の名を、知らぬが佛の女房につけた體である。

 東京を距ること二十哩、汽車も今は上野から一時間と十七八分かゝるが、追々には一時間になる見込がある。いざといふ時は此處から東京へ通つて通はれぬこともない。少くともこれで地主の壓迫は避け得た。

 たまたま「みゝずのたはごと」を讀むと、徳富蘆花君の居を千歳村に定めたのは、多摩川の流に近いと聞いたからだと書いてある。僕の地を我孫子に相したのは、多摩川でも何でもない。地主に對する不平だ。蘆花君の都落は、流石に大分風流だが、僕のは全く殺伐である。斯くまで人間が違うかと、僕はしよげた。(大正二年五月)

出典 楚人冠全集第1巻(日本評論社)
(註)本文は原文に概ね忠実に、旧漢字、急仮名遣いを用いていますが、一部現在の漢字、仮名にしている部分もあります。ルビは全ての漢字についていましたが、当HP上では表現していません。
平成16年5月1日 吉澤淳一

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