鵠沼の緑と景観を守る会・葉山環境文化デザイン集団との現地交流会
              参加者 今川、伊藤、瀬戸、吉澤、梅津
私達は、我孫子の"「村川別荘跡」の有効活用"を考える上で、 もう一つの鵠沼の「村川別荘」を視察しその現況を把握しようと、好天に恵まれた9月3日小田急線本鵠沼駅を下車して、村川先生の所有した海浜別荘と周辺を訪ねてみた。 そして帰路、皇室別荘地で名の知れた葉山にも立寄った。

 鵠沼の町の東を流れる境川は、東に湾曲しながら江ノ島の西側で湘南の海にでる。鵠沼の別荘地は、明治の初めまで射爆場で大砲(おおづつ)の練習場であった砂丘地帯を、 30年頃になって300坪単位という今では考えられない単位面積で開発し、別荘地として売り出したのがこの地の新時代のスタートとなった。

   私が描いていた鵠沼の別荘は海辺からやや離れた所を想定していた事は間違いなかったが、湘南の海岸から1kmも奥まった位置の砂丘地形という 地理的環境にあるとは考えも及ばなかった。

   砂丘間湿地は、以前は沼地であったが、現在は部分的に窪地や庭池として残っている。旧村川邸は、美しい松の生茂る砂丘と植生の育ちにくい 低地の芝生が映える鵠沼松ヶ丘公園になっていた。この公園は2000坪の広さを持ち、愛護会の人達によって綺麗に清掃されていた。松林は東海道の海浜では見慣れた植生であったが、 宅地開発と温暖化の所為か、今はその保全と植林の必要性が叫ばれ、「鵠沼の緑と景観を守る会」はそれに向かって行動しようとしている。

 たくさん別荘のある中で旅館「東屋」は、明治から昭和初期にかけて徳富蘆花、志賀直哉、谷崎潤一郎、宇野浩二、芥川龍之介、与謝野鉄幹・晶子、斎藤茂吉、里見剥泙 広津和郎、佐藤春夫、大仏次郎、吉屋信子、宮本百合子その他多くの文人が逗留していた。明治40年10月「白樺」の発刊に当って志賀直哉、武者小路実篤は、 ここで相談しあったという。我孫子の地に逗留した文化人が一過性であったのとは大分違っている。
しかし、沼の多くあった処で舟遊びをし、釣り楽しむという事は別荘地での唯一の遊びで あったのではないだろうか。別荘地としてのこの静かな水辺の自然・野生環境は我孫子との共通点である。

 旧別荘地域の現状は、更新されて新しい富豪、企業施設に変わっている。一方で持ち主と町の協力で開放されて市民の憩いの場にもなっている。その運営の経済はマイナスで あろうが金銭で表せられない市民の生活環境整備という観点もある。別荘の数は、我孫子の比ではないので同じ観点では論じられないが参考になる。そしてここでも旧別荘地は分化し、 一般住宅化が進み部分的ではあるが密集化している。

   葉山は、142.8mと左程高くもないが屏風のようにそそり立つ大峰山麓の海岸斜面にあって、冬は暖かく夏は森に囲われて涼しいであろう。海水浴が出来、 何処からも海が見える静寂を求める自然・植生環境の中の避暑地でもある。海浜までの直線距離はせいぜい300〜500mと狭く従ってくねくねした坂道の多い処である。 平坦地は少なく1本の県道が通るが車のすれ違いは容易ではない。昭和初期の交通網が残っている。

   別荘人は皇族、旧貴族、政府高官、大企業家、芸術家が多い。鵠沼、我孫子の別荘人が庶民の中で静かな沼を愛し、釣りを楽しみ、 酒を飲み芸術を求め文学を求めた野生環境とは異質のものがある。
      
(梅津 記)

■もどる