第17号 2006.1.21発行
街路字の氾濫 −文字と景観−     吉澤淳一(会員)
「風景というものは、実際、文化的アイデンティティに関するきわめて確かな指標である」

「風景は文化的アイデンティティの指標であるばかりではなく、さらにそのアイデンティティを保証するものである」。これは、「日本の風景・西欧の景観」の著者オギュスタン・ベルク氏(1)がその著書で述べている言葉で、日本の、我孫子の街並み景観に関心のある私にとっての金科玉条である。

私にとっての街並み景観とは、何処にでもある極めて日常的な景観を指す。
   この日常景観が、経済の論理によって如何に損なわれているかを、冷静に説いているのが「失われた景観」の著者、松原隆一郎氏(2)である。

世に景観の論客は大勢いるし、いろいろな著作物もあるが、焦点を日常景観に絞り、景観と電柱電線問題や郊外幹線道路の画一景観などを、経済論理性との対立概念で述べている点で、彼の説には共鳴する部分が多く、勉強になる。
   景観を損なう事象はまちに溢れていて枚挙にいとまがないが、ここでは街の看板とその文字について、私の感じるところを述べてみたい。

街路樹は街並み景観を構成する大切な要素だが、街路字はまちなみ景観を損なう負の要素ではないかと、日頃感じている。その街路字の媒体である看板類も同類項である。
   街に氾濫する看板類の多くは、建物の壁に、道に直角に設置されている(袖看板とも突き出し看板とも言われる)。まちなみ景観の1次輪郭線を構成している建物に、看板が無秩序に設置されることによって、新たに2次輪郭線が出現し、まちなみ景観を一層無秩序なものにしている。(3)

看板の使命は"目立つこと"と"分り易いこと"であるが、更に景観を損なわなずに周囲と調和することも大切である。広告販促コンサルタントの今津次朗氏の著書「私は目立ちたい」(4)では、「私(看板)は目立ちたいのである−だが、環境を悪くしていないか−」と、看板のデザインに注文をつけている。氏は一昨年の我孫子市景観賞表彰式にて、このテーマで講演をしているので、まだ耳に新しい。
稚拙な看板ほど単純に文字を多用していて、そういう看板が跋扈している。従って街を歩いていると、あるいは車で走っていると、矢鱈と文字が目に飛び込んでくる。この現象はなにも我孫子に限ったことではなく、この国のどこでも見られ、あの銀座通りでさえ同じである。街並みに限らず、のどかな田園や自然豊かな山岳・海辺でも、道があれば文字が出てくる。もううんざりだ。

人は文字を見ると、反射神経的にそれを読む。読むと無意識にその内容を理解しようとする。街を歩いていて、何でそんなことをしなければならないのか。その文字が次から次へと視覚に飛び込んでくる。そして無意識のうちに前述の行為を繰り返す。しかもその存在がまちなみ景観を壊している事実に私たちは直面している。

景観を述べる際に、外国の例を引き合いに出すのは気が引けるが、一つだけ参考例を紹介する。昨年暮にスペインに出かけた際の話である。アンダルシア地方の丘陵地帯の国道を走っていると、遙か彼方にぽつんと牛が1頭見えてくる。それは黒い闘牛の牛の姿だ。だんだん近づいて来ると、その牛は大きな看板で道路脇の丘の上に建っている。やがてすれ違い後方に流れて行く、その牛の大きさは10メートルはあろうか。これはある酒造会社の広告看板で、ガイドさんの説明によると、この国では道路脇の広告看板には文字は許されていないという(市街地は別らしい)。理由は、かって国道における交通事故の原因調査をしたところ、「道路脇の看板の文字に見とれて」と言うのが多かったそうで、それ以来文字入りの広告看板は禁止されている。それで思い出したのが、今から30年程前、同じこの国を訪れた時に全く同じ牛を撮影したことだった。帰国してその時の写真を探したら、はたしてそれは見つかった。ただし、牛の横っ腹に何やら文字が見える。VETERANO OSBORNEと読める。この30年の間に看板から文字が消えたこの事実に、思わず羨望を覚えた。この国に滞在中の6日間で、国道沿いの看板は、この牛のほかには別の酒造会社の看板(これにも文字は無い)のみで、それも3時間程走って1回程度の割合でしか遭遇しなかった。この国では、道路際の広告看板には高額の税金だか、掲出料だかを納めなくてはならないとも聞いたので、さもありなんと思った次第である。看板のない、それも文字の無い景観のなんと素晴らしいものか。
造酒会社の看板 文字が無い
2005年撮影
同じ会社の30年前の看板
横っ腹に文字が見える
翻ってわが国は、とは申すまい。経済活動における私権を縛ろうとも思わない。せめて、文字の少ないセンスある看板を、センス良く設置して欲しいと願うものである。東山魁夷画伯の著書「風景との対話」(5)の中でこんな件(くだり)に出会った。(コペンハーゲンの町で)「店は早く閉めてしまっても、ショーウィンドーにはおそくまで明るい灯が輝き、思い思いに並べた商品は、どうかして、より多く売ってやろうというよりも、どうすれば美しく見えるだろうかと工夫を競っているように見える。だから、それを見ながら歩いていると実に楽しくなってくる。」我孫子の商人にもこんな志を持っている方々がいるに違いない。

この街にもつい最近まで、写真のような看板があったという事実が、私を勇気づけてくれる。
オオバン通り(緑)にあった
金物屋さんの洒落た看板
 →
街の文字は看板だけではない。2年前と昨年11月に市に提言した「のぼり旗」も美感上如何かなというものが多く、道路上にも白ペンキで色々と書かれていて、今や街並みは文字だらけ。

こういう現実の景観は、別に法を犯しているわけではないし、法で解決できる問題とも思われない。看板を見せる側も見る側も、東山画伯の言うように、「どうすれば美しく見えるだろう」という原点に立ち返り、市民みんなで街並み景観を考えて行きたいと思う。
参考著書
(1)講談社現代新書 
(2)PHP新書 他に「景観を再考する」青弓社がある
(3)「街並みの美学」「続街並みの美学」芦原義信著 岩波現代文庫
(4)MPC 株式会社エム・ピー・シー
(5)新潮選書

■もどる