鎌倉の住宅街にたたずむ景観重要建築物を尋ねて 足助哲郎(会員)
海と小高い緑豊かな山に囲まれた天然の要塞、古都鎌倉。今回の旅は一般住宅の中に佇む市指定の景観重要建築物等を訪ねての散策だ。

平成17年12月7日(水)、本格的な冬の訪れを予感させる寒い朝だったが抜けるような青空の快晴に恵まれ、参加者9名はこの散策の企画者である沖田さんと木村さんの先導により約4kmの道程を10時にJR鎌倉駅西口から出発した。

学生時代から何回となく訪れている鎌倉もその多くの場合神社仏閣巡りの観光目的であったので観光ルートを外しての散策は始めての経験となった。

旧安保小児科医院、篠田邸、かいひん荘鎌倉、寸松堂、旧吉屋信子邸、鎌倉文学館、のり真安斉商店、旅館対遷閣、白日堂の順に約3時間を掛け、公開されているものは中に入り、非公開のものは外から見学した。

散策した道の辻つじは、平日で車も人も少なかったことを割り引いても、狭いが歩きやすく道端の何気ない石碑の周辺にも手入れが行き届いていた。また、観光客と道行く地元の人達との割合も程よくバランスしていてちょうど良い賑わいであったし、長谷寺の参道では旅館対遷閣の2階の欄間窓を眺める我々を参拝帰りの観光客が不思議そうに眺めて通り過ぎるという珍風景もあった。町並みはあくまでも歩行者に親切で、現在何処を歩いているかが直進しながら各街路灯に表示されている町名で知ることができ、さすが観光地と感心させられた。

古都保存法や風致地区制度での指定が全市面積の56%に及ぶという鎌倉市は散策した地域ほぼ全域で建物の高さは4階建て以下であり、豊かな緑とのバランスが実に良い。

外壁の柱や梁などを骨組みにして外に見せるハーフテインバー様式の建築物である旧安保小児科医院、篠田邸及び鎌倉文学館は切妻の屋根と相俟ってとりわけ緑との調和を引き立てていた。 

中でも後を山に守られ前方に海が見渡せる鎌倉文学館の佇まいはそのものが小鎌倉を思わせ別格であった。この建物だけは国登録の有形文化財で、旧前田家別荘であったものを1983年鎌倉市が譲り受け、1985年鎌倉文学館として開館したという。
この建物は近代建築ファンの間で鎌倉の洋館ビック3と呼ばれているもののひとつだとのことで、三島由紀夫の「春の雪」に登場する別荘のモデルにもなったと説明されていた。

折から「文学都市かまくら100人展」の開催中であった。散策中手にしたタウン誌によると鎌倉にゆかりの「鎌倉文士」300人がリストアップされ、その中から100人を選定したとあった。正岡子規、島崎藤村から現在活躍中の藤澤周、柳美里まで、オリジナル原稿を始めとするゆかりの品々が展示されていたが、我孫子ゆかりの志賀直哉や武者小路実篤は含まれていなかった。

同誌はまた、鎌倉に住んだ作家は武士という意識、侍気質のようなものがあって「鎌倉武士」から「鎌倉文士」になったのではと伝えている。鎌倉に来た最初の文学者は正岡子規で、明治22年(1889年)のことであったとし、子規のあとは藤村、漱石と続いたとのこと。私事になるがこの5月、高校の同級会で郷里の文豪を偲ぼうと馬篭に尋ねるにあたり「夜明け前」をあらためて読み直し藤村に接し、10月には所属する合唱団の定期演奏会で子規の短歌組曲を主演目として歌った同じ年の12月に鎌倉で子規と藤村に出会えたのは感慨一入であった。

鎌倉文学館をつくるについては評論家の小林秀雄が「鎌倉文士なんていっても、鎌倉で生れたのは実朝以外いまい」といって反対したという。その実朝の「大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも」の一首が文学館の門柱に刻まれているのを見つけた時、悲劇の将軍源実朝が780余年前、己の運命を予感してこの歌を詠んだのは冬で波の高い日だったろうと勝手な想像を巡らせた。

長谷駅から腰越まで江ノ電で移動し昼食の「しらすづくし定食」に舌鼓をうち、小田急片瀬江ノ島駅までの帰り道をゆっくり江ノ島を見ながら進む途中、義経が腰越状を認めたという「万福寺」に通りかかり拝観した。義経の悲運を物語るかのように周りをすっかり住宅に囲まれ、その寺は裸で佇んでいた。

この日の鎌倉は午後になっても雲ひとつ無い快晴が続き海はあくまでも静かに凪いでいた。

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