あびこの歴史景観を探る― その(3)                       梅津 一晴(会員)
続・利根川と手賀沼

(3)手賀沼
 明暦元年(1655)、幕府の奨励もあって江戸の商人は手賀浦干拓に野心を燃やしました。寛文6年(1666)には、布佐と布川間で利根川を締め切り最初の手賀沼開発(町人請負新田開発)を行ないました。苦難を乗越えて海野屋作兵衛は干拓に成功しました。

 寛文10年(1670)、手賀浦開墾のため高台(布佐台の東端,昔稲荷神社のあった台地)から水天宮付近の築留まで新堤を作りました。そのため銚子から布佐・手賀浦を経て松戸に行く水上輸送は出来なくなったと言われます。手賀沼は、当時まで利根川と航路が自由であったことになります。

   享保12年(1727)、勘定吟味役井澤惣兵右衛門為永、江戸商人高田友清は、千間堤を築堤して手賀沼を二分し、下沼を干拓する事にしました。しかし千間堤の完成で上沼畔の水田は、大雨の度に冠水に見舞われるようになったため、村民が千間堤を破壊したため下沼の新田も壊滅しました。海野屋と共に手賀沼干拓に参加した相馬新田の井上家は相馬新田名主となり、元文期(1736〜41)以降は自普請で開墾事業を行ないました。

 昭和中期になって、手賀沼干拓は国の事業で推進され、昭和43年調節水門下流の水田が干拓され、同時に利根川との合流地に手賀排水機場を新設したことで沼の水を随意に排水出来るようになりました。そのため水害の心配はなくなりましたが、利根川から手賀沼への魚の遡上は妨げられ、名物のウナギも昇らなくなりました。

   手賀沼沿いの洪水の状況は、今はその恐ろしさを想像することも出来ませんが、千葉大学中川先生によると水深80cmの手賀沼が3mにまで達し、冠水面積は普段の8倍にも広り、水が引くまで半年も掛かったといわれます。
(4)現在見る利根川沿い;利根川遊水地(田中調節地)

 青山〜久寺家、柏地先に続く1200町歩に及ぶ広大な遊水地は、昭和55年の治水計画以降、田中調節地と呼ばれ、現在は見事な耕地が広大に展開していますが、かっては湖沼が点在し、葦・萱が密生し水鳥が群棲する湿地が広がっていました。そのため、釣りや猟の名所でもありました。

 この湿地帯の中でも州や自然堤防では、高さ2m程の小さな堤で囲んだ水田・畑地が作られました。しかし、そのような耕作地は、洪水に見舞われることが多いため収穫があれば「もっけの幸い」、「もしか新田」などと呼ばれました。洪水が運ぶ肥沃な土地は貴重な耕作地でありました。

   青山の東に位置する日出地区には小さな池が5つ並んでいます。その内4つはNEC工場の敷地内にありますが、もう1つは梶池亭の所有です。昭和23年当時の地図によると梶池の東にも昭和43年当時の土地改良事業でなくなってしまった小さな堤に沿って5個の小池が分布して居ります。梶池亭のご主人や上根古屋の年配者に尋ねてみると、これらの池は洪水の度に堤沿いに洪水で掘られたために「オッポリ」と呼ばれていました。

(4)古利根沼
 昔の利根川は、JR利根川鉄橋下流から右岸側に大きく蛇行し、中峠の上根古屋の台地を侵食し、増水時は、この地に多大の水害をもたらしておりました。そのため23年を要した直流大工事が行なわれました。昭和5年(1930)の完成後、古利根沼が生まれました。

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