ホームページ「我孫子の歴史景観を探る」を書き終えて 梅津一晴(会員)
私が我孫子の景観に関心を持ったのは、若い世代の人たちが充分に明日への英知を養い、健康で豊な生活をエンジョイできるようなそんな創造性豊な環境が創り上げられたら素晴らしい我孫子市になるだろうという考えからです。また、現役を退いた私は、我孫子はこれから生きる土地、第二の故郷になるわけで、心から愛し、育まれる故郷としたいという個人的な理由によるのも事実です。

私が物心ついた少年時代は宮城県の米どころ大崎耕土の古川です。大崎耕土は西に船形山、北に栗駒山を抱く西−北に連なる奥羽連峰があって、人々を大きく育んでくれました。その所為か、我孫子に住んで暫らくは、起伏の少ない我孫子周辺の風景にもの寂しさを感じたものです。

絵を描くことに抵抗感はなく、むしろ美しい風景をスケッチして、その時々刻々に変化する光景を描きあげる満足感は格別なものがあります。しかし動機がないと絵心は生まれないものです。外国旅行をしてきれいな絵を描いている方々が多いです。それは見慣れぬ土地に行き、物珍しさから来る感性の絶頂で捉える描写ですから、一流の画家が描いた作品と同じくらいにエネルギーを濃集しているとおもいます。

私はその様なエネルギー源を我孫子の歴史景観の中に発見しました。 共に我孫子の景観スケッチに加わって下さった高野瀬さん、高橋さんは絵具の使い方は年期がありお上手です。むかし、私は仕事の先々でホテルの窓からの風景、原野を探索しながらの国内外の風景を未完成にして残しました。今やっと落ち着いた我孫子の風景を描けるようになりました。

郷土史は断片的な史実、言い伝え、遺跡、遺品からの推察などから組み立てられたものが多く筋道立てて歴史をひも解く事は不可能に近いものです。しかし断片的な歴史を知る事で探求した人その人の歴史観がもてるのも楽しいものです。そんな歴史観で我孫子の風景を描写して来ました。また路傍の風景となった"歴史を創ってきた"多くの風景とも出会い、それを描写できたのは大きな収穫でした。

我孫子の景観は歴史遺産の分布から考察すると、富士山―手賀沼―古墳群―別荘、筑波山―利根川―古墳―布佐八景・別荘、がセットになっています。明治中・後期の布佐全盛時の布佐町松島重右衛門邸は日本博覧図に銅版画での残されいますが、その背景に富士、筑波山、手賀沼、利根川、松、和田城址が描かれています。遠くの小さな名山であっても、山水の存在は景観の重要な要素といえるものです。
手賀沼  滝の下の水郷
危機に瀕している風景もあります。布佐の風景です。布佐の歴史景観の多くは利根川沿いにあります。かっては「竹岱秋月」と詠われた利根川河岸の高台に故大澤岳太郎教授ユリア夫人の別荘がありました。栄華を極めた布佐の街並も、その堤防沿いにトラック産業道が走りその素晴らしい利根川沿いの風景を疎遠にしてしまっている事です。最近になって明かされている16号線バイパスの利根川ルート問題は布佐の歴史景観を潰滅するに等しく再検討を願うものです。

描き終わってみると我孫子の風景の単調さは"芭蕉の寂び"に繋がるものがあるように思われます。山のない池、湖畔、斜面沿いのはけの道は雨季の風情が素晴らしい。色を塗らずに鉛筆、ペンで描いた風景は"寂び"を一層倍加します。それを「滝の下の水郷」、日立庭園の小径で見い出しました。バーナード リーチの「手賀沼我孫子」に奥深い静寂を感じ取れるのも"寂び"があるからなのでしょうか。 
「我孫子の歴史景観を探る」では65枚のスケッチ画が出来上がりました。これからも三人で"我孫子百景"に挑もうと話し合っています。

また、我孫子は水辺の多い、樹木の多いところです。小鳥たち小動物はどんな風景を好み楽しんでいるのだろうかという、そんな試みを摸索しようと「我孫子の野鳥を守る会」の間野さんと話し合いました。
佐原景観散歩雑感           近藤貞彦(旧村川別荘市民ガイド)
11月14日(火)第四回景観散歩として佐原散歩に参加した。当日は晴天に恵まれ、快適なバスツア−を楽しむことが出来た。我孫子駅北口を出発し、多数の帆掛船が行き交う利根川の景色を空想しているうちに、順調に目的地の佐原に到着した。佐原には、油絵のスケッチに二回、写真撮影に一回を含め、何回か訪ねているが、今回は、景観の観点からの学習が目的のため、緊張を覚える。到着後、佐原町並み交流館で、『小野川と佐原の町並みを考える会』の佐藤健太郎事務局長から佐原の歴史や町並み保存と再生につきお話を聞く。
●ボランティアガイドさんの説明を熱心に聞き入る参加者

徳川家康が江戸に入ると、それまでは東京湾に注いでいた利根川の流れを、東へ移す大工事を行い、銚子で太平洋に注ぐようにした(これを「利根川の東遷」という)。これにより利根川の水運が大いに盛んになり、佐原は利根川の河港(佐原河岸)として全国からの米の集積地となり、また、米を原料として酒や、醤油を製造販売して江戸の台所を支え,江戸からは衣料品など持ち込んで捌く商業都市として栄えた。その後、陸上交通の発達により水運が衰退し、佐原も停滞期を迎えた。

昭和50年の文化財保護法の改正により、「重要伝統的建造物群保存地区」制度が創設されると、当地でも佐原の町並み保存の機運が起こり、平成3年、「小野川と佐原の町並みを考える会」が発足し、市役所へ働きかけて基本計画を策定し、地域の住民の賛同を得るために説明を開始した。

文化庁の認可を得るためには80%以上の同意が必要なので、度重なる説明会の開催に加え、きめ細かい個別説得に努めたが、「考える会」による小野川の清掃や投棄自転車の拾い上げ等の実践により住民の理解が得られ目標が達成された。平成8年、関東地区で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。この制度により、この地区は文化財としての価値が認められ、国の補助制度により保存整備が進められることになった。

<佐原がこの制度の適用を受けた理由>
○ 木造建築に加え、土蔵や洋風建築が混在し、変化に富んだ町並みとなり各時代の建築様式の流行を伝える。
○ 中央を小野川がゆっくり蛇行して流れていることが、特徴的な景観を作り出している。
○ 小野川沿いと香取街道沿い、そして下新町通りは歴史的背景や業種の違いから異なる町並みと独特な趣を醸しだしている。
次に,佐原の大祭は、7月の夏祭り(小野川より東の本宿の鎮守である八坂神社による)と10月の秋祭り(小野川より西の新宿の鎮守である諏訪神社による)二つの総称だ。その起源は不明だが、佐原は利根川水運によるその財力を背景に祭り文化が発展し住民の娯楽となった。江戸との交流から山王祭、神田祭を意識し江戸より優れた山車祭りを目指した。
●ゆっくり蛇行する小野川
   「お江戸みたけりゃ佐原へござれ・・・・」.
桶松食堂で昼食後、ボランティアのガイドで町の中心部(忠敬橋付近)にある重要伝統的建築を見学した。(正上、中村屋乾物店、福新呉服店、伊能忠敬旧宅等)
幸い、地元ガイドの案内のため、店舗の内部を詳に見学させて貰う。中村屋乾物店は店舗づくりで佐原を代表する建築物。奥に文庫蔵がある。福新呉服店は前面と側面は土蔵造で佐原の商家の代表な建物。店舗奥に蔵造りの「街角博物館」がある。このように店舗独自で、自主的に展示しているのが、「佐原町ぐるみ博物館」で、自店のお宝や代々伝わる伝統の品などを展示している(例えば、季節により、お雛様や五月人形など)。町興しにかける市民の意気込みが感じられる。

また、佐原と言えば、「地図のまち佐原」と呼ばれる。伊能忠敬は200年前、日本列島を歩いて日本地図を作成した。又、地元の利水・治水に貢献し地元の人々から「今の佐原があるのは伊能家と忠敬先生のお陰」と言わしめた。旧宅前の小野川に掛かる樋橋(農業用水を通す樋)を作ったのも伊能家の一族だと言われている。
●県指定文化財
 いかだ焼きの「正上」天保3年建築

この後、自由行動。皆は伊能忠敬記念館を見学したが、私は香取街道を歩いて見ることにした。一つは、佐原の二つの祭りを取り仕切る八坂神社と諏訪神社を訪ねてみること。来年は、是非お祭りを見に来たいため。もう一つは、残存する酒造2社(馬場酒造、東薫酒造)を覗いてみること、また、古く伝統の店の再生を探ってみたいためである。喫茶店遅歩庵(伊能家17代当主経営)、小堀屋(名物「黒切そば」当主8代目)

なお、佐原市は本年3月小見川町、山田町、粟源町、1市3町が合併し香取市が誕生したが佐原市名が消えたのは寂しい限りである。
帰りに、下総国一の宮の香取神宮にお参りして我孫子に向かった。

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