三樹会だより (6)
柳宗悦と朝鮮   三樹会世話人 瀬戸 勝
三樹荘の初代住人で民芸運動の創始者、柳宗悦が朝鮮の美と文化のよき理解者であったことはご存知の方も多いと思います。
 彼の生涯と作品を紹介する、韓国では初めての本格的な企画展がソウルで開かれていることが朝日新聞に載りました。(昨年12月2日付夕刊)。
柳と朝鮮とのつながりについて述べてみたいと思います。

日本が朝鮮を植民地支配していた当時、支配の象徴ともいえる朝鮮総督府の新庁舎建造に際し、工事の邪魔になった「光化門」(朝鮮王朝時代の王宮正門)を取りこわそうとした時、柳は敢然と撤去反対の抗議文を「失われんとする―朝鮮建築のために」と題して雑誌「改造」に発表しました。この抗議文は朝鮮でも大きな反響をよび、遂に光化門撤去は中止に追い込まれ、朝鮮の人たちは柳に深い敬意を抱きました。

その柳が後年、朝鮮の美の特徴を外部の侵略にさらされ続けた「悲哀の美」と評したことが戦後韓国の学会などで「植民地史観に基づいて朝鮮を見下した意識の表れ」と反撥を招いたのです。

柳がそのような意識をもっていたとは到底考え難く、おそらく「もののあわれ」に代表される日本語特有の奥の深いニュアンスが韓国の人達に十分伝わらなかったのでは、と私は考えています。

20回以上も朝鮮を訪れその美と文化を日本に紹介してきた柳にとっても大変残念なことだったと思います。
いまソウルで開かれている企画展は、柳の功績を再評価し、韓国人の手で新たな「柳像」を探ろうとする試みです。

一個人に対する評価が、時代の変遷と共に正から負へ、そしてまた正へとゆれ動く、ある意味では柔軟ともいえる韓国の人の考え方は、一度下した評価はあまり変えようとしない(例えば吉良上野介は永遠に悪玉視されるかもしれない)我々日本人から見れば奇異にすら映りますが、お国柄をよく表した一例かといえるかもしれません。

この企画展見に行きたいがちょっと無理。日本でも開かれることを切望してます。
会員からひとこと
こもれびの天神坂           塚本 泰弘
30年以上前に、山道のような坂を下ったように記憶している。その道は民家の中に通じているようにも見えたが、どこかへ出られるかもしれないという気持ちが勝って、恐る恐る降りて行った。時々こういうことをする自分に呆れながらも下って行くと、下が開けてT字路が見え正直ホッとしていた。下りきって後ろを振り返ってみると、木々の間からこもれびが射していて、ホッとした気持ちも手伝ったのか、何とも言えない暖かい気持にさせてくれた場所だった。慌ただしい生活を送っていた当時は、何度も同じところへ出かけることもなく、その坂道の記憶は消えてしまったのである。

それから25年も経っただろうか、6年ほど前に地図を持って未知のウォーキングコースを開拓中、きれいな石の階段に出会った。その石段を気分良く下りきって「発見・素晴らしい坂道」と地図に書きとどめ、自宅に帰って女房に自慢げに報告したのを覚えている。その後何度かこの坂を訪れるうちに、こもれびが射しているのを見て「ここは以前に来たことがある」と感じるようになり、30年ほど前の記憶が蘇った。

坂道の名前も知らずに訪れていたが、後に市の広報紙で市道の「天神坂」だと判った。
奇しくもこの坂道を三樹会々員として定期的に清掃することになり、暖かい気持にさせてくれた「こもれびの天神坂」に何か因縁のようなものを感じていましたが、最近天神坂東南の木々がかなり伐採され見通しがよくなり過ぎ、こもれびを感じにくくなり残念に思っているのは私だけでしょうか。

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