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●私の勤めていた会社は戦後一時期黒いダイヤと持て囃されたが、エネルギー革命により石炭産業は不況となり、リストラが始まった昭和44年(1969年)頃、私は商事会社の子会社へ転職と同時に吉祥寺の社宅を追われました、当時土地ブーム・建設ラッシュであちら此方と居住地を探し廻ってやっと見付けたのが我孫子の手賀沼の辺り若松でした、 「何故に、我孫子に」?・・・・・一つには、千代田線が開通すると丸の内に直行で通勤に便利である事、いま一つは子供の頃の故郷の景観に通ずるものがあったと思えるのです、 ●では、何処に牽き付けられたのか、・・・・・印象でした、造成された土地は広々としていて沼辺に広がり、水辺に葦が茂って水鳥が遊び、背景には斜面林の緑あり、文字は違うが故郷にある「安孫子」の地名も懐かしかった、 私の生地は琵琶湖の東岸の辺りで湖東と呼び、北に伊吹山、東に鈴鹿山脈、西には湖の渚あり、傍には宇曽川の長閑な流れのある田園風景でしたが之に通じるものがあったのでしょう、栖を求めて来た私は、その縮図として連想したのでしょう、 そのヒラメキが根底にあって「我孫子の若松」を選ばせたのであろうと今にして振り返っている。 ●孟母三遷の教えがある、幼少の頃に育った環境、即ち、自然、歴史、文化、習慣はその人と成りに結びついている、 好むと好まざるとに関わらず、景観は風土として そこに育つ人々の人格、"らしさ"を形成していくものであるとすれば、景観は風土であり、知らず知らずのうちに住む人達の身に沁み込んでいくものであれば、我孫子の景観は我孫子の風土として重要な意味を持つものでなければならないのである、 |
●進士先生が"視覚的環境像"が「景観・ランドスケープ」であるとし、これを風景と呼ぶ、と定義している、之は正しいが、之また難しい、・・・・でも私は考える、・・・・風景が景色の延長線上にあるとするなれば、 景観には哲学があっても、風景には哲学がないと思うからである、因みに人間を除く他の生物は生きるために環境には即応して反応をしめすが景観や景色が如何に美しかろうと感情的反応は示さないのである、 故に景観には人間特有の哲学的財産があるとしたいのである。 ●さて、手賀沼の地も一時期は砂埃りと魚や貝の死臭、水の悪臭に悩まされ、どうしてこんな処に住んだのかと悩んだ時もありましたが此処に住んで三十数年漸く改善されて落ち着いてきました、 とは云い条、もっと素晴らしい我孫子が欲しい、我孫子には国内は勿論 県下に誇れる好い街並みがありません、 歴史ある我孫子文化の拠点として公園坂通りが、「誰もが歩いてみたいと感じる魅力のある街並景観」を装うように成ったら好いがとの思いがつのります、 いま市が推し進めている「公園坂通り整備構想市民スタッフ」に参加していますが、皆様方からの知恵とご支援をお願いします。 |
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市民活動フェアinあびこ2007 | 市民観桜会 | ||
日時 3月3日(土)4日(日)10時〜16時 場所 生涯学習センター アビスタ テーマ 「輝くまちは、みんなの力 さあ何かをはじめよう」 当会はパネル参加します。パネルは1階ストリート の右端に展示されます。また、1階では「我孫子の 景観」をTV上映します。 |
●我孫子ゴルフ倶楽部で毎年開催される市民観桜会は、2007年は4月9日〈月〉に決定しました。 | ||