<景観散歩>  上州 桐生紀行       高野瀬 恒吉(会員)
5月8日 天気好し、参加者は当会員17人、三樹会員15人、庭園公開サポーター他6人計38人の一行は8時30分出発した。バスは2時間ばかり走ったころ、青く晴れた空のもと 広々とした平野に黄金色に色付いた麦畑が開ける、上州らしい長閑な風景である。

「ようこそ八木節のふるさとへ」の看板を横目に渡良瀬川に架かる錦桜橋を渡って桐生の目抜き通りに入った。11時過ぎ「みやじま庵」で昼食をとる、出された"うどん"は格別に美味しかった、12時再びバスに乗る。本町五・四・三丁目と電線を地中化して整備された美しい商店街を通り抜け、目的の本町通りにある古びた印象の「無鄰館」に到着した。同館では丁度「ユネスコ世界遺産写真パネル展」が催されていた。「無鄰館」は大正5年に建てられたノコギリ屋根の機工場を利用したもので、女子寮のレンガの壁なども保存されており国登有形文化財に指定されていると云う。

そこで、本一、本二まちづくり会会長 森 壽作さんから「桐生新町まちづくり構想」についての話を聴いた。
(註)「桐生新町」とは、現在の一丁目〜六丁目・横山町が江戸時代初め荒戸新町、後に桐生新町と呼ばれたもの。

森さんは、上毛カルタに「桐生は日本の機どころ、と詠まれている街です」・・・から始める。 桐生はかっては"西の西陣・東の桐生"と云われ、盛大を極めていたが、昭和35年頃から人口は減り始まり商店街も店の数が減って来て地域全体が空洞化してきた、メインの本町通りは歩道もない危ない通過交通の道路になって、此の儘では歴史的な町並みの景観など残せるものではない、と危惧されたので平成2年地元の旦那衆が寄り集まって「蔵活用会議」を作って「蔵」の調査をしたのがこの活動の始まりであり、それから十年経った平成12年 更めて住民提案型「本一、本二まちづくりの会」を発足させ、第四次総合計画(2001−2010年)を策定、スタートさせたものだと云う。 十人十色賛否まちまちの市民の意見を纏めて盛り上げるのには随分と苦心をされたとのことであった。

続いて、「無鄰館」の持ち主であり管理者である北川紘一郎さんが粋な着物姿で現れ、ファツション桐生「わがまち風景賞」を設けた経緯と、賞は何故'景観'でなくて'風景'としたかについても語ってくれた。
最後に、森さん自作の「買場沙綾市音頭」(かいばさやいちおんど)を聞かせて貰ってから、森さんの案内で本町通りを見学する。

本町通りは元は道に沿って川が流れていたものが埋め立てられ歩道のない今の通りになった。 「無鄰館」の敷地もそうであったが、天正19年(1591年)頃に一丁目から三丁目まで開拓のとき道路の両側の土地を、間口6間(10.8m)奥行き40間(72m)に区画して入植させたものでその面影は桐生の文化としていまに残して居るものがあったが今後は如何なって行くものか。

生憎と当日は商店が休みの所為で各所にシャツターが下ろされていたので町には活気が無かったが、古くておおらかな家並みが随所に見られ、'機織の老舗の街'と云う、風土に生きる人達の人情を仄かに感じさせてくれた。
「無鄰館」を出たところに「坂口安吾、一千日往還の碑」があった。安吾は1955年頃3年間此処に住んでいた〜 とあり、此処に戻って「昭和55年10月(1980年)48歳で没す」と記していた。 その先に行くと街づくり会が活動の本拠にしている"寄合所しんまちさろん"があった。平成14年に開設したものだそうで色々の資料を揃え、会議をする場所もある常設の事務所になっていて羨ましい。


道路を跨いで「有鄰館」を訪れる。市指定の重文で 入って直ぐ左側にレンガ造りの蔵あり、その奥右手に白壁の味噌蔵、土作り穀倉等があった。幕末から大正までの間酒類・味噌・醤油など醸造していたと云う。"桐生からくり人形芝居館"もあった。館では運よく「忠臣蔵」の堀部安兵衛と清水一角の決闘の場の実演を見せてくれた。仕草と云い一角が安兵衛に斬られると一角の髪が解けて倒れる場面のメカニズムと云い伝統芸の見事さに感動する。

本町通りを歩いていると6間・10間の家並みの間に幾つかの裏路地が見つかる。これが又鄙びた歴史の匂いを醸し出す風情に思わず歩を留める。

そのあと金谷レース工場、オリジンスタジオ(旧住善織物工場)旧斎憲テキスタイル工場とノコギリ屋根工場跡を見て歩く。ノコギリ屋根は大体4棟位の規模でレンガ、コンクリート、大谷石造りと建材は様々で夫々に固有の特色がある様だがこれが桐生市の歴史景観の財産でもある。 ノコギリ屋根工場は現在市内に200棟ほども残っていると云うが散在している様子で、いまは機織工場の町という感じは淡い。 そこから門前町本町通りの要とも思はれ、毎月の第一土曜日に古民骨董市の立つと云う"桐生天満宮"(県指定重文)に詣でてから"買場おしやれ店"(明治16年上市場(買場)開設の地の碑あり)に戻って、バスに乗り込み桐生市に別れを告げ、佐野厄除け大師に向かった。
4時過ぎ、"佐野厄除け大師"に到着した。入り口には一千年記念に建立したと云う鐘楼が聳えており「金銅(キンヅクリと振り仮名が付いていた)大梵鐘」直軽1.15m、重さ約2トンの鐘が黄金色に輝いていた。本堂にお参りしたあとみんなの集合写真を撮り、再びバスの人となって、西陽を背に一路帰途に着いた。
 18時35分頃みんな元気で恙なく我孫子に帰着した。天候に恵まれ好い思い出の旅となったこと、世話役の方々に感謝します。

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