三樹会だより (9)
「二十数年住んだ我孫子」       高橋 照子(三樹会)
我孫子のまちの由来等理解しないまゝ二十数年を経ましたが、三樹会に入会させて頂き二年六ヶ月になり、我孫子の今昔を少しは識ることが出来た様に思います。

我孫子が「人、鳥、文化、のハーモニーのある、心輝くまち」になり、大正の初期には「北の鎌倉」とまでいわれたその品格を残すべく「我孫子の景観を育てる会」の方々は努力していらっしゃるのだと思っています。

この夏「つくし野通りフラワーロード」の散策に参加して、まだ昔の面影を残した森林や、手入れの行届いたお庭、並木路など、人と緑との調和を保って、心の癒しとされているのには感じ入りました。たまに東京の喧騒を経て帰り着く我孫子は、まだ空気も清涼に感じほっと安らかな気分にさせてくれます。

先日、村山先生のお許しを得て、東京の友人二人を三樹荘に案内し、「あすなろ亭」で先生のお話を伺うことが出来ました。また白樺文学館へもご一緒して、柳兼子夫人の美しいソプラノのCDを三人で求めて来ました。友人達も我孫子の知らない面を見ることが出来たと、改めて見直した様でした。
ところで、私は杉村楚人冠の人となりを全く知らなかったのですが、俳句を長くやっている知人が詳しく教えてくれました。文部省唱歌の「牧場の朝」の作詞者とのこと、また東京朝日新聞のジャーナリストとして活躍する一方で、当時娯楽のなかったころ我孫子の駅員の中から有志を募り、俳句の会「湖畔吟社」を作り我孫子の文化発展に寄与した人です。

昭和二十年十月三日「白馬城」と名付けた我孫子の邸宅で七十四才の生涯を閉じました。命日の十月三日を「蝉噪忌(せんそうき)」として偲んでいる由、杉村楚人冠の人となりを識ることができて知人に感謝しております。そしてこれからも我孫子のことをもっと識ろうと心がけています。

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