市民活動入門講座を終わって                  梅津一晴(会員)

今回のテーマは「我孫子を知ろう」でした。大変関心度の高かった体験講座「歴史景観散策;布佐」の案内役講師を楽しく勤めることが出来ましたが、皆さんにお話し出来なかった布佐の歴史断面を別な見方でご紹介したいと思います。

川港町布佐は、我孫子で最も早くの文明開化した土地です。利根川は、文禄三年(1594)の東遷工事に始まり60年後に承応三年(1654)の赤堀川通水で誕生しました。

その後の利根川下流域の風景を拾ってみました。
芭蕉は貞享四年(1686)、鹿島の月旅「鹿島紀行」のなかに途中立寄った布佐網代場を書いて以来、布佐は江戸中に知れ渡りました。世が落着いた元禄(1688)に入ると、「木下茶船」が江戸の遊客の間で人気になり、遊覧と香取、鹿島、息栖の三社参詣が盛んに行なわれました。

一茶は文化七年(1810)、高野山の最勝院に立寄った後、布佐、布川に来ています。国学者高田与清も文政三年(1820)に、取手から小堀を訪れて弟子達に講義しました。このような利根川の船旅を楽しむ多くの文人の往来は弟子達を育て、流域文化は生まれました。

明治(1867)に入って、布佐小学校初代校長松倉潜蔵、柳田國男、山田花袋、国木田独歩、島崎藤村等の往来は、その流れの中にあったと見ることが出来ます。
利根川の東遷以前から布佐は、鮮魚に限らず多くの物資を江戸に輸送する重要な通商路の中継河岸(かし)でした。

水運が盛んになった享和(1800)期に残る船の出入り記録から考えると、高瀬舟など大小様々な船は上潮に乗って川を上り、布佐に来たようです。しかし、河岸での受渡し法は定まらず、荷の受渡トラブルはよくあったようです。いまも「なま街道(江戸道)」基点に残る駄馬供養の馬頭観音石塔は、元文三年(1738)のものです。観音堂が立てられる63年前ですから、元文の頃から「なま街道」はあったと思われます。川漁も盛んに行われ、天保二年(1831)には網代で川は滞流し、洪水になったと言われるほど川漁は盛んでした。

船は大型化し、嘉永五年(1852)には造船基地、布佐の清五郎は五百表積の高瀬船を建造しました。明治四年(1871)には川蒸気飛脚船が走りました。

明治十九年の布佐の人口は2,648人です。醤油の町野田は2,784人でしたから、当時の布佐は水上交通の要衝、豊かな経済都市のひとつであったに違いありません。
編集後記

明けましておめでとうございます。
当会会員でもある佐多さんが会長の「景観形成会議」で、昨年末12月8日に「原風景をみがく景観のレンズ」と題して日大の宇杉先生の講演会があった。

日本の景観の原風景が欧州だとの先生の意見に、考えさせられた。今若い人が大勢引っ越してくる我孫子が、その人たちにとって、美しい原風景になると良いのですが・・・(清水昭子)

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