我孫子の景観を育てる会 第37号 2010.5.22発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(14) 〜私にとっての「我孫子らしさ」〜            前田 毅(会員)
「我孫子らしさ」とは何だろうか。「私が我孫子に魅かれる」のは何に依るものなのか。「景観」という概念はどう捉えるべきなのか、入会以来丸二年、考え続けてきた。会員の皆さんが交々語られる想いを拾い集めてみると共通する風景が浮かび上がる。まず、手賀沼の存在、我孫子台地の広がりと沼への坂道、はけの道、里山、谷津といった自然の風景がある。そこを舞台に古代から繰り広げられてきた人間の営みとの見事な調和が生み出す文化的な情景がもう一つの要素だ。景観とはこの二つが織りなす空間を謂うのだろう。そこには、会員の皆さんのこの地に生きるものとしての実感と想いが通底意識として流れている。

私は、しかし我孫子市民ではない。市民として、生活者としての実感が欠けている。にもかかわらず我孫子には魅かれるものがある。それは何だろうか。私には会員の皆さんが持っておられる情念・価値観に加えてもう一つの想いがある。それは、謂わば"異邦人"としての「私の我孫子らしさ」である。その魅力を探ってみよう。

我が家は柏市の東のはずれ、我孫子市との境にある。「丘の道」を上って頂上に至り振り返ると背後に筑波山が望める。両市の分水嶺だ。つくし野へと一気に下る。さらに足を延ばせば、我孫子駅から手賀沼へと続く。外出時はいつもこのル−トだ。"半分、我孫子市民です"というのはあながち誇張ではない。現役時代からもう何十年もこの道を辿ってきた。そして、いつも我孫子側に下るたびに丘の手前までとは違う何かを感じていたのだが、その実態が何なのかは最近まで分からなかった。「私の我孫子らしさ」の本質を探るために、あらためて注意深く歩いてみた。

丘の頂点を境に、微妙な空気の違い、風の中に含まれる細やかな微粒子のような湿気と、それがもたらす、さらに微妙な風の香り。これだ、これが私を惹きつけているのだ。と同時に、もう一つ何とも言えない懐かしさのようなものが感じられる。どこかで経験したことがある"Deja vu"。この感覚の源は、"いつ、どこで"経験したものだろうか。この懐かしさは何がもたらすのだろうか、と暫し過ぎにし昔を回想する。
"そうだ、岩倉だ!、宝が池だ!、同志社だ!"。
岩倉の里は、今から半世紀も昔の高校時代に三年間私を育んでくれた"Alma Mater"同志社高校がある。南には宝が池があった。京都の市街地北端の丘陵地帯が突然切れて北側に大きく落ち込むと、そこには岩倉盆地がひっそりと広がっている。当時我が母校以外には何の施設もなく、見渡す限りの田畑と農家の集落が点在しているだけの静かな田舎だった。比叡山が見下ろす盆地の真ん中に聳え立つ高校のチャペルを目印に、若者は集い、語り、遊び、学び、歌い、別れ、青春を謳歌した。授業の合間や放課後、友と連れだって宝が池の周りを毎日のように散策したものだ。そこにはいつも盆地の隅々にまで、宝が池がもたらす微妙な湿気と爽やかな香りを含んだ風が満ちていた。人間の生活空間の舞台となる自然の風景に沼、川、池、湖が存在するとなんと人の心は落ち着き和むものなのか、どんなに私たちには貴重なものかとの想いに至り、"Deja vu"の源に辿りついて私の心は漸く安堵した。

我孫子らしさとは「おもてなしの心」とか。我孫子は、市民でもない私のことを半世紀前の高校生が故郷に舞い戻ってきたかのようにやさしく迎えてくれる。だから私は我孫子の街中にいる時、この街を愛してやまない皆さんと一緒にいるひと時には、こんなにも心が和み落ち着くのだ。

時は移り時代は変わり、人々の営みもそれにつれて変わっていく。しかし私たちは、どんな時代にも心の奥深くにいつも変わらないものを抱き続け、後々まで伝えていきたいと思う。そうすることが「我孫子らしさ」の真髄ではないだろうか。

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