我孫子の景観を育てる会 第40号 2010.11.20発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(17) 〜手賀沼の夕日〜             西村 美智代(会員)
何故、そんなにまで、水は私達を惹き付けるのだろうか? それは、子どもの頃を「水」に馴染んで暮らした所為だろうか。

一人は池で泳ぎ、川で釣りをして少年時代を過ごした。また、一人は「・・終日のたりのたり・・」の瀬戸内の海に沈む夕日を拝んで育った。

三方を山に囲まれ一方は海。春には山の斜面は一面の除虫菊。まっ白な花となる。小波が立ち、金色にキラキラと輝く波の彼方に夕日が落ちていく。その中を飛魚は弧を描くように高く飛ぶ。然し、一度冬の海が荒れると、遠くまで白馬が走り、堤防を越えた波は、海岸沿いの道を自転車で通学する中学生に襲いかかる。それでも同じ海に沈む夕日は、えもいわれぬ美しさであった。

私たちが、「水、水」、「・・水・・、水・・」と、水辺を探し求めて手賀沼湖畔に居を定めたのは、三十年前のことである。私たちは、水に安らぎと優しさ、心を落ち着かせる力を求めていたのかもしれない。

手賀沼は、沼面に並んで岬近くまで続くポプラの木が迎えてくれた。天に向けてまっすぐに伸びた細い樹が風に吹かれながら、健気に立っている姿がなんとも美しく、思わずお辞儀をしてしまった。しかし、そのポプラの木は、今はもう無い。木の高さの割に根は張らず、倒木の恐れがあるので切ったらしい。沼に集う人々の安全を守る為の措置であると聞き納得したものの、木の葉を透かして沈む夕日を眺めていた私には惜しいことであった。
私たちは、毎日犬を引っ張って遊歩道を歩く。沼に沿って何キロも続く道は、松、桜、柳、桂、つつじ・・等の木々や、群生する芦、がま、まこも、アヤメ・・等の水草が目を楽しませてくれる。

黄色いアヤメは、杉村楚人冠が「一度壊れた自然は二度と戻らない」と手賀沼干拓に反対しても守ろうとした沼の美観を、土地の二十代の若者たちで作った「風致会」が、「自分たちの町の美化は自分たちの手で・・・」と植えたものであると、最近、往時の風致会の活動を知る方から教えられた。昭和14年に植えたアヤメが70年後も花を咲かせている。感慨もひとしおである。

晴れた日は、沼の向こうに落ちていく夕日に出会えるのが楽しみである。歩を止めて、じっと眺めていると、初めはゆっくりと、そして或る処からは一気に落ちる。朱の色が沼面を染め、やがてグレイがかった紫色に変わる。それは残光と共に一面青い灰色となって、一日のセレモニーが終わる。

不登校やいじめの問題が子ども達を苦しめていた頃、宗教学者の山折哲雄氏が、質問に応えて、「この頃の子どもは夕日を見ていない」とおっしゃった。
どういう意味であろうか。「人間も自然界の中の動物の一種であるならば、人間だけが驕り高ぶっていいはずはない。自然界に対して畏敬の念を持ち敬虔な気持ちで、生かされていることへの感謝の気持ちを持とう。今の人間は、"自然界は征服出来る"と幻想を抱き倣岸である。もう少し見えざる大いなる力に謙虚に額衝く事が大切なのである。」と日本人の失ったものを残念に思われたのかもしれない。
手賀沼の日暮れ

遊歩道を歩きながら夕日を眺め、何とも言えない気分で、今日も一日無事で終えられた事を心の中で感謝する。朝日に四方拝をしていた信仰心深かった祖父や父の姿を思い出しながら。

水は、恐ろしさも併せ持っている。普段は穏やかな滑らかな沼面に水鳥を遊ばせている沼も、増水すると水は遊歩道まで上がってくる。

我孫子に移って三十年の間に二度浸水の恐さを経験した。ポンプの容量の所為か、ハケの道の上から押し流されてくる水を処理しきれず、逆流してマンホールから噴き出す。水は見る見る住宅地を上がっていったのである。今、水害対策委員の皆様の尽力により、県は堤防を沼の中へ移し高くする工事をしている。土地の人は、「沼はもう昔の六分の一に減り、まるで川になってしまった。」と嘆くが、植栽工事を終えた芦の帯が向こうに見える風景も、中国の沙湖に似て懐かしい。勿論、そこからの夕日も暖かく美しい。

「景観は、時と共に変化する。」とつくづく思う。だからこそ景観は新しく育てていくものであろう。

そろそろ草取りが億劫になり始めた二人は、遊歩道を犬に引っ張られて歩きながら、「鍵一つで出かけられる便利な都会のマンションに引っ越しましょうか?」と話し合う。しかし、見事な夕日を見ると、「遊歩道の散歩もこの沼の美観も捨てがたいねえ!」と結論はでない。そして今日もまた、犬を引っ張って遊歩道を歩いている。
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