我孫子の景観を育てる会 第43号 2011.5.28発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(20) 〜我孫子の空〜                                 滝日 一子(会員)
「智恵子は東京に空がないという。本当の空がみたいという」もちろん有名な智恵子抄の一節である。

「我孫子らしさ」とはどんなこと、と高野瀬さんが「景観あびこ」24号で提起され、シリーズ「我孫子らしさ」は今回で丁度20回になる。19人の方がそれぞれ我孫子について縦横無尽にたくさんのことを書いていらっしゃるので、私は大好きな我孫子の空について書いてみようと思う。

昭和45年に千代田線の開通を期待して、我孫子の若松に土地を買った。電話の取り付けまで6ヶ月待ち。公衆電話は今のアビスタの入り口まで行かねばなかった。でも、ひばりが鳴き、秋の七草が咲き乱れ、若松全体で10数軒の家々であったが、総ての方と向こう三軒両隣のお付き合いだった。
若松1970年
昭和45年ころの若松住宅地。向こうは手賀沼

我孫子に住むようになってから、空を見上げるのが習慣になった気がするが、スモッグに覆われた東京の空を思う時、いつも智恵子抄の一節が胸に浮かぶのである。東京と2,3度の温度差の為もあり、夜空の星の数も違うし、空を見ていると心まで晴れてくる。吸い込まれそうになるまで空を見上げる。そして心の中で空の絵を画く。あそこにはプルッシャンブルーを使い、マリンブルーをちょっと交ぜて、あの辺りには、ミッドナイトブルーに白を入れる等々、そしてきれいに透きとおった空を描き続ける。
「水と緑と土の匂いがいっぱいの我孫子」に空の美しさを加えたい。手賀沼を見下ろす我孫子側の丘陵地帯は斜面緑地として、今や我孫子の数少ない自然のある場所である。縁あって若松から引越して斜面緑地の一角に住むことになり、家の中から木々の間を通して眺める空もまた美しい。

我孫子の空と同様に、私にとって大きな存在感のある空が上高地の空である。上高地の帝国ホテルの赤い屋根の後に連なる北アルプス連峰の山々、白い冠雪の上に深い紺碧の透明度の高い空があり、そのコントラストはとても強烈である。それともう一つの忘れられない空。それは終戦の日、白いひとすじの飛行機雲のあったぬけるような青い色のそらである。

中村脩著「ふるさとあびこ」によると「あびこ」という語源はアイヌ語ではないかということである。部落地名の下ヶ戸(さげと)、古戸(ふると)、船戸(ふなと)、日秀(ひびり)、都部(いちぶ)、中峠(なかびょう)、岡発戸(おかほっと)等々、アイヌくさいという、とても興味をひかれることである。

方向音痴、地図音痴、そして足に自信がなかったこともあり、住んでいる周囲しか知らない私であるが、足の許す限り歩いてみたい。我孫子らしさを沢山見つける為に。歩いてみなければ、という気持ちがふつふつと湧き上ってきたのである。そして、色々な空を見つけてみたい。今、あびバス景観マップの企画がかたまりつつあるが、とても楽しみである。全部、全部、端から端まで乗ってみたい。
三樹会 二つの喜び                                                        瀬戸 勝(会員)
三樹会活動はとうとう7年目に入りました。メンバーの皆さんが毎回楽しみながら活動してきた成果のあらわれでしょうか、ただただ頭が下がるのみです。そして村山家のお心配りと我孫子市公園緑地課のサポートにも心からお礼申し上げます。
 二つ目の喜びは、村山先生が元気なお姿をお見せ下さいましたことです。

4月14日(木)は風もなく暖かい日、庭先に出られた先生は、私たちが清掃を終えて一服していたあずまや「あすなろ亭」までお越しになり、健在村山節、和歌の話、ご神木で作った囲炉裏の座台の話、お得意の艶話、そして、「先生より20才若い」富樫さんとの掛け合い・・・・。とてももうすぐ98才、闘病生活を送ってこられた方とは思えない若々しさに一同圧倒されっ放しでした。
打ち続く余震もこの時ばかりは遠慮していたようでした。
私たち三樹会メンバーは村山先生の元気なお姿を励みにして、これからも由緒ある庭園と情緒ある坂の景観維持に努めてまいります。

三樹荘
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