我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第46号 2011.11.19発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(23) 〜 思い出「心の額縁」とともに 〜              滝澤 正一(会員)
私にとって「景観」とは
思いがつまった風景(画)の素材(下敷)かも?

先日、女性会員のTさんから一枚の古い地図をもらった。開いてみると、それは私の生まれ育った町、東京・本所区石原町(現墨田区)というところだ。近くには、隅田川が流れ厩橋・蔵前橋などという橋が架かっており、小船が引っ切り無しに往来していた。住まいの周辺は、町工場が多く通りを挟んで向かいに金属加工工場でプレス機械の音が、裏は印刷工場で何時もインクの匂いがしていた。家には、裏手に申し訳程度の庭があったが隣との境はなく自由に行き来できた。両隣の玄関先や軒下には、空き箱に土を盛り縁日で買った植木・草花を植え、ご近所はもとより道往く人々の目を楽しませてくれる活気ある心豊かな町だ。

こんな環境で育った私には、小さい頃から一風変わった趣味があった。それは「箱庭」造りだ。時々、近郊に遊びに連れて行ってもらったときには、家に帰るとすぐに出先での印象的な景色を思い出し「箱庭」にして眺め楽しんでいた。特に農村風景などの再現には力が入り、「田んぼ」は脱脂綿に水を浸して水田に見立て、縁日で買った「絹糸草」の種を蒔き、やがて芽を出し一面みどり色になるのを楽しみにしていた。

「箱庭」は、造る過程で思い出が蘇り膨らみ、眺めるだけで心が和み癒される不思議な空間である。どうやら背景に私の思いをラップさせるのに十分な光景や、多面的な切り口を持つ景色があるからで、この下敷きこそが私にとっての「景観」のように思えてならない。

我孫子は「景観」の宝庫だ・・・ と思う
我孫子のまちは、東西14km南北5kmの馬の背のようだ。どっちが頭か判らないが両腹は木々で覆われた斜面が多い。南側は正面から光が射し、斜面は明るいみどり色で手賀沼の水面が映える。北側は木々の上から光をうけ、逆光のやや黒味を帯びた緑と全面に広がる田畑や利根川の水面が望める。これを私は勝手に裏日本と表日本の地形に見立て、我孫子は、日本列島全国特に本州各地の景観が凝縮された「景観の宝庫」だと思っている。

前述のとおり私には「箱庭」造りという変な趣味があったが、昨今は細かな作業が苦痛になった。だが いろいろな思い入れ・思い出を求める気持ちは以前より増してきた(人は歳のせいという)。そこで最近は、胸に「風景画」を飾る額縁(心の額)を秘め、その額をかざして我孫子の「景観」を覗き見したり、切り取ったりしては思い出の一枚の絵に仕立て、密かに楽しみ心を癒している。
過日、手賀沼で開催されたバードフェスティバル会場で、偶然手にしたパンフレットの写真に目がとまった。「千曲川と高社山」の風景である。ここは私の母親が生まれ育った信州中野の景色だ。亡くなる数年前墓参に同行したとき、数々の思い出話を聞かされところだ。これに似た眺めが我孫子にもあった。布施の一角から北新田・利根川越しに見える筑波山がそれだ。山の峰こそ数は異なるが、心の額縁の置き方により何かを感じ取ることが出来感動を覚えた。

また、湖北・中里道は、戦時中に体験した疎開先の思い出と重ねあわせることの出来るところだ。疎開先は山梨県の一宮村。遠い親戚の家だが我々家族のために敷地内の蔵を住まいに改造してくれた。村道沿いの塀と蔵のある眺めはどことなく懐かしい光景だ。細かく言えば塀沿いに細い水路があり、道路の向かいは桑畑だったと思うが、私の心の額には中里道の風景がぴったりだ。

我孫子に住みついて45年、前半は会社人間として単なる塒としての我孫子だったが、今では思い出を語り懐かしみ、時には心癒される「心の風景画」を描くのに素材豊かなまちだったのだなあ〜 と思えるようになり我孫子がますます好きになった。

「景観」は、人それぞれの思いが込められた風景画の下敷だが、これも先人たちが、いつの日か思いを込めて造り・守り・育ててきた宝物だと思う。そこには歴史あり、数々の思いが引き継がれている。我々はそれらに思いを馳せ、更に自らの思いを重ね心和む生活の糧とさせてもらっている。この良き財産をいかに後世に残すことが出来るか。 今我々に課せられているテーマのように思う。


挿絵
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