我孫子の景観を育てる会 景観あびこ_title 第48号 2012.3.17発行
発行人 吉澤淳一
我孫子市つくし野6-3-7
編集人 飯田俊二
シリーズ「我孫子らしさ」(25)  〜私の知る今昔〜         海老原 千枝子(会員)
『日本の原風景は農村にあり』と言われますが、都市近郊ではどの市町村でも景観は同じようなもので、抱える問題にも大差がないのではと思います。農村が都市化され、加速度を増して複雑化している現代だからこそ、"らしさ"を作り出すことが求められているのかも知れません。

やはり、我孫子に象徴されるのは、手賀沼と坂東太郎でしょうか。日本で唯一、鳥の博物館も学習の場としてよく知られる所です。

昭和49年汚濁度日本一の汚名の手賀沼も、かつては『たまっけ』と呼ばれる貝が獲れて、子供たちは水泳にも興じたそうです。再生途上の今は、鯉や鰻など数日間井戸水におくだけでも美味しく食べられるようになりました。十代の頃にボートから見た沼の透明度は今は無く、周りの景色は様変わりしましたが、沼をめぐる遊歩道にはもうすぐ桜や藤の季節がやって来ます。

そして、坂東太郎(利根川の別名で子供の頃より親しみがありました)では、鮭や『ぼっか』と呼ばれる大うなぎが獲れていました。ぶ厚い切り身で食べたのを覚えています。川海老や鮒なども舟から投網で獲っていました。川向こうとの縁組も多かったようです。ここでも水泳は行われていました。また遊水池の田圃は幾度も水害を受けましたが、今年も土手には菜の花いっぱいの季節を迎えます。
天王台駅は、手賀沼や利根川への散策コースに便利です。以前は、山林と畑が広がっていました。昭和30年代後半から宅地造成が始まり、駅が出来て、それまでの原風景はみるみる失われました。想い出が壊されたのです。さみしく哀しい思いをしたこと、今でもはっきりと思い出します。所得倍増期やバブル期と、高度成長により都市化が進みました。

僅か残った竹林などはゴミ捨て場と化し、勝手に伐採し持ち去ることは日常茶飯で、市内どの地区でも見られた光景でした。

やがて、終の棲家として我孫子を選択した人々が増えるにつれ、住民意識に変化が見られるようになりました。壊れた多くの環境も、異なった形であれ何とか再生出来そうな気配です。

取手や柏に住む友人たちからは、『我孫子は文化の街で、意識の高い人が多いんだってね』と言われます。両市の開発に挟まれてきた我孫子は、その細長い地形と、市民意識の高さが周辺では認知されているのでしょう。未来を託す子供たちと共に、景観を育てる会やNPO活動を通じ、我孫子を知る機会が一度でも多く持てればと思っています。

先祖代々暮らしてきた地区の私にとって、あびこの我孫子らしさ? 考えれば考えるほど何なのか解らなくなってしまいました……。
         「景観まちづくりフォーラムin佐原」に参加して                  瀬戸 勝(会員)
2月19日(日)高野瀬さん、柏倉さんご夫婦と頭記フォーラムに参加した。去る平成18年秋の「景観散歩」で見学したあの町並み、あの建物がこの度の大震災でどうなったか見届けたかったのも参加した理由のひとつである。

当日、会場の「佐原町並み交流館」は70名を超える参加者でごった返していた。
 佐原は2つの地区で被害を受けている。
1) 新市街地区
 利根川の改修でできた湿地帯に、これまた利根川を浚渫して採った砂を入れて作った土地、今般罹災した布佐の都地区に酷似している。現在、市役所、消防署、中学校(小生ここに通学していた)ほか一般住宅も建っているが、布佐同様液状化現象で被害大きく、今も水道は仮設とのこと。

2) 町並み保存地区
 「景観散歩」で説明を受けた、いわゆる「小江戸」と称される伝統的町並みの保存地区で、多くの県指定有形文化財建造物が罹災した。

午前中は三軒の文化財建造物(正上、小堀屋、福新)を視察した。実は本フォーラムの案内チラシに、屋根にブルーシートがかけられている写真が載っていたので、その程度の被害ぐらいと思っていたが、被害の規模ははるかに大きく、特に店舗裏の蔵は目茶苦茶でほとんど壊滅状態だった。どの蔵も修理には相当期間を要すると思われる。小堀屋の社長が<地震到来1時間後>の写真を見せてくれたが、まさに思わず息を呑む光景だった。
午後からは「震災時の状況とその後の取組みについて」と題した発表とパネルディスカッションが行われた。佐原は明治以降これまでに大きな火災3回、洪水2回、地震2回に見舞われ、その都度かなり被害を蒙ったが、いずれも今回の東日本大震災の比ではなかった。

発表を通して感じたことは、復興に向かっての市民のネットワークの強さである。震災後すぐに「小野川と佐原の町並みを考える会」を中心に「県指定有形文化財建造物を守る会」が結成され、自治体との折衝に努めている。

また一方、文化財建造物所有者を代表して小堀屋社長が全員に「先祖が作った町並みを完全復活させよう」とハッパをかけている。

<おわりに>
復旧の進め方として、佐原は上述のように市民が行政の後押しを行っているのに対し、我孫子では液状化による被害地布佐に「布佐東部地区復興対策室」を設置、行政主導で復興を進めている。でもどちらの場合も目指すのはただひとつ完全復興である。

私たちは東日本大震災で学んだいろいろの教訓を忘れ去ることなく記録にとどめ、次世代に引き継いでゆかねばならないと思う。もう「想定外」という言葉を使うことのないように。

パネルディスカッションの最中に突如突き上げらるような揺れが来て、会場が一時騒然となった。これも「3.11体験の風化」への警鐘であろうか。
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